スピリチュアリズムでおはようSUN

シルバーバーチの志を学んでいます

難しい修行をしている人

知的な障害や身体に障害のある人を見ると思うことがあります。

「難しい修行をしている人」と。

 

僕は以前医薬品の配送の仕事をしていたことがあります。
大きな大学病院に医薬品を納めるため病院の奥の方まで
台車を押して入っていくわけですが、
その時に見た光景が忘れられません。

 

その病室には重度の心身の障害で、ベットに仰向けに寝たままの状態で管に繋がれ
ずっと天井を見つめている患者さんがいました。

 

どのような難病かは解りませんが、意識があるのかないのか解らないような状態だと思います。

手や足や、顔や頭も変形して動くことが出来ないように見えました。

 

年齢は15~20歳くらいで、おそらく生まれてからずっとそのような状態なのだろうと思われました。
そしてこの先もずっとそのような状態なのだろうと。。。

 

その当時、その患者さんを見た時は見てはいけないものを見てしまったような気がして重い気持ちになりました。

 

「あの人は何故生きているのだろう?
何のために生まれてきたのだろう?」

と思ったことを覚えています。

 

今でもあの時の病室の患者さんがどうしているのか考えたりします。

今でも生きておられるのだろうか?
既に亡くなって霊界で幸せにしておられるのだろうか?と。

 

霊的真理を学んだ今ではあの患者さんのように障害とともに生きている方は
霊的に「難しい修行」をしているのだろうと思うようになりました。


(「障害」や「患者」という言い方が正しいかどうかは解りませんが
ここではとりあえずそう表現します)

 

霊界通信を学びますと、障害のある身体に宿る霊魂は
過去生のカルマ精算の為にそうなる場合と
高級霊があえて難しい修行を選択してそうなる場合があるようです。

 

いずれにしても障害のある身体を自ら選び
その苦難とともに生きることで霊的な成長を
神に納める為にそのような人生があるのだろうと思います。

 

そんな人にとっては生きることそのことが
たいへんな難行苦行です。


比叡山大峰山の1000日回峰行など
宗教的な難行苦行とはまた違うかもしれません。

 

しかし難行苦行と言う意味では
そのように難しい修行をしている障害のある方の人生はそれ自体が
宗教的な難行苦行よりも遙かに過酷で、しかも霊的価値の高い難しい修行をしているように思います。


障害の霊的原因がその人の過去生の「カルマ」にあるかどうかは解りません。
しかしもしそうだったにせよ難しい修行であることには変わりません。


人は誰しも間違いを犯すものです。

間違いから多くを学んで向上するのですから、過去の間違い(カルマ)を本人でもない他人が裁くことは厳に慎まなければなりません。

なので障害者はカルマのある罪人なので差別してよい、とする考え方も間違っています。


障害のない健常者は難しい修行をしている人を出来る限り
サポートしなければならないのだと思います。


霊的成長はその人個人の問題だけではなく広く人類全体の霊的共同体の向上にも関連連動していると考える事が出来ます。

障害者はその苦しみを通じて人類全体の霊的向上のためにその身を犠牲にして霊的な「仕事」をしてくれている、と考える事が出来ます。


健常者としては、障害者の難しい修行が無事に成就されるようにサポートすることが

なすべき霊的な「仕事」になるのだと思います。

 


地上的な視野では障害を「不幸」「不条理」「不平等」「不公平」などと捉えがちです。

 


残念なことですが「障害者は不幸しか作り出さない」とする考え方があります。

障害者施設を襲った無差別殺人犯のように、
物的な価値観をとことんまで突き詰めるとそんな発想になってしまうのかもしれません。
こうした問題も「霊こそ実在」という霊的真理を前提にしないと
答えが出ないように思います。

 


地上的な物的視野では障害はネガティブなものとして
そう見えるのかも知れませんが、
霊的視野で見ると障害者は広く人類(霊的共同体)の為に
そのような霊的な仕事をしてくれている存在と考えることが出来ると思います。


神が間違ったからその障害があるのではなく
神が間違わなかったからその障害があるのだと思います。

 

まさに「不幸」「不条理」「不公平」「不平等」が存在しない証拠として
その「障害がある」のだと思います。

 

障害は不幸ではなく神の愛の証明になると思います。


そしてその障害に感謝しながら神と共に生きることが
その人が納めるべき神から与えられた「仕事」なのだろうと思います。