スピリチュアリズムでおはようSUN

シルバーバーチの志を学んでいます

例え殺される未来が待っていたとしても…

修験道に次のような信仰があります。

 

「苦しい厳しい修行を行うことにより、自分がなしてしまった過去の罪業が消滅し心身が浄化される」

 

というものです。

 

この信仰を霊的真理に照らし合わせて考えますと、

霊的には間違った信仰と言わざるを得ません。

 

 

「自分がまいた種は自分で刈り取る。よい事も悪い事も。」

 

というのが霊的真理だと思います。

 

良い種をまけば良い結果が現れ、悪い種をまけば悪い結果が現れる。

これが神の厳然たる摂理であり、神の愛であると思います。

 

 

自分がなした悪いこと(カルマ・摂理背反)が、苦行によって、つまり人為的・意図的に作り出した「苦しみ」によって振り替えられて「消滅する」なんてことは有り得ないと思います。

 

自分がやってしまった「カルマ・摂理背反」は自分で責任を取るのが神の愛であり

その罪を「勘弁してもらう」「別のものに振り替えてもらう」のが神の愛ではありません。

 

神の公正は完全です。

 

神の摂理は人間の想像を絶するほどに天文学的に正確無比であり、

巨大な宇宙のどこを探しても、また霊界のどこを探しても

一分の隙もないほど完璧であると信じます。

 

自分がなした「カルマ・摂理背反」は自分で刈り取るほうが

喜ばしいことであり、祝うべき慶事なのだと思います。

 

しかし実際にカルマを自分で刈り取っている現場では

「苦しみ・悲しみ・不幸・不条理」

がやってきたかのように地上的な視野では感じられたり見えたりするので

つい混乱が生じるように思います。

 

 

少し極端かもしれませんが解かりやすい例を用いますと。。。

 

もし自分の過去生で人を殺しているカルマがあるとしたら

今生でそのカルマを刈り取るのが、つまり「殺人の被害に会って殺され返す」のが

神の公正であり、喜ばしいことであり「神の愛」なのだと思います。

 

もし自分が将来そのようにして「殺され返す」運命が待っていたとしても

神に全てをお任せし、「それならそれでどうぞよろしくお願いします」と

その「殺され返す」ことを自ら進んで望むように願い出るように神に祈ることが

神への正しい祈りのあり方ではないか。。と思います。

(もちろん自分の霊的履歴は知りえないことではありますが、だからこそ神への信頼が試されるのだと思います)

 

 

修行苦行の目的は神の完全にどこまでも身を委ねた

覚悟を決めた不動心を培うことが目的のようにも思います

 

「何が起ころうとも…、例え自分に殺されるという運命が待っていても、

どうぞ来るなら来て下さい。ありがたく受け入れます。それが霊的成長にとって必要だと確信します。私は神を疑いません。その完全さを、その叡智を、その愛を疑いません。」

修行を通じてこんな感じの覚悟が決まると良いように思います。

 

 

地上的な一般常識で言うと「殺されること」は不幸以外の何物でもありません。

しかし霊的視野では「不幸」はある意味では有り得ないのだと思います。

 

こうした理解に達すれば、その「心のありよう」において

それまでの「不幸・不条理」の捉え方の状態が変化・変容した結果、

「かつての不幸の感じ方・不条理の捉え方」が消滅すると解釈(表現)することも出来るのかもしれません。

 

 

霊的真理を学ぶと

苦しみを「不幸・不条理」と捉えるのではなく、

むしろ「神の公正・神の愛」の証明と捉えてこれに感謝することが出来ると思います。

 

 苦しみの感じ方が変容すると思います。

 

そして結果的に苦しみの感じ方が軽減されるように思います。