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シルバーバーチの志を学んでいます

憑依について5

今から考えると、憑依が深刻化ていた時というのは
霊的に虚弱な状態にあったように思います。

 

霊的な知識も経験もなく
「憑依」という言い方があることも知りませんでした。

 

全くの徒手空拳の状態で何かどうなっているのかを手探りしながら
右往左往していたように思います。

 


しかしあれから10年経過し、霊的真理の勉強をし
また修行をはじめ様々な経験を得ることで
何となく抵抗力がついたように思います。

 


しかし霊的に虚弱な状態だった当時は
おそらく危険な状態だったように思います。


憑依による「殺意」を感じたのもその頃です。


「~しなければならない…。。」
という強い強迫観念があったと記憶しています。

 

「自分が死刑になってもいい。家族が悲しんでもいい。
今まで積みあげてきた自分の人生が台無しになってもいい。
むしろそれほどまでに、それくらいに、
あいつは殺されて当然の奴なのだ。」

 

こんな感じの強い「義務感」があったように思います。

 

憑依が深刻化すると何らかの事件、事故が起こるように思います。

憑依が進むと確かに心神耗弱状態です。その人の理性は相当弱まっている状態だと思います。


最近でもありましたが、通り魔的な殺人事件、無差別殺傷事件など、憑依が関係していると思われる事件について興味がありまして色々考えたりしています。

 

こうした事件の容疑者は犯行時は心神耗弱状態で刑事責任が問えるのかという議論があります。

要は頭がおかしくなっているので罪は問えないのではないか?
という意見です。

確かに一理ある意見だと思います。


では霊的な責任はどうなっているのかを考えてみます。


無差別殺傷事件の容疑者は憑依を受けている要素があるにせよ
そこまで憑依を深刻化させてしまった責任は
その人自身にあるように思います。

 

低級霊に憑依される原因は
厳しい言い方になりますが
その人自身が低級霊だから。という要素が
大きいと思います。

 

また憑依の究極的な原因は憑依される人の
カルマにあると思います。

 

憑依による苦しみは、憑依される人のカルマの解消のために必要なものであり、

そのおかげで霊的成長の道を歩めるのであるから、その苦しみは霊的にはむしろ喜ばしいこと、と学んでいます。


憑依されている人は憑依されていることを自分で気づき、
またその原因が根本的には自分にあることを洞察して
自分の生き方考え方を改め、霊的成長の道を歩むよう努力しなければならないのだと思います。

 

なので憑依霊を一方的な悪者と解釈するのは間違っていると思います。


また一方で、憑依している霊は霊でその霊自身に霊的な責任があるように思います。

 

例えばある人物に悪意を持って取り憑いて自殺させたり、殺人を犯させたりした低級霊の場合はその霊自身がそれ相応の責任をとらされることになると思います。

摂理は完璧ですから。

 

ただ、中には憑依霊自身に自分が憑依しているという自覚がないものもいるようです。
それは地上人に自分が憑依されているという自覚がない人がいる場合とよく似ています。

色々なケースが考えられますが、どのような状況であれ摂理によって自動的にそれぞれそれ相応の正確無比な霊的責任が発生しているものと思われます。

 

 


恐ろしい殺傷事件が起こった場合、加害者側だけでなくその被害者側の

「殺傷を引き寄せた要因」も連動しているはずだと思います。

 

地上的視野でみると殺傷事件の被害者は
頭のおかしい加害者によって一方的に理不尽に
殺害されてしまった運の悪い人、かわいそうな人になると思います。

 

しかし霊的視野で見ると偶然というものはありません。

 

その被害者の殺傷被害にはその人のカルマが原因しており、
カルマを解消するために自身が殺傷されるという被害の経験が必要だったために、神の厳然たる摂理が働いてその加害者を見えない力で引き寄せて加害行為に至らせた可能性があると思います。

 

ある意味では加害者は被害者のカルマの解消のために
何らかの霊的な「仕事」をした、と考えることもできます。


僕は憑依が深刻化していた時に「義務感のような殺意」の感じを受けましたが、被害者側のカルマという霊的因子がそのような感じを起こさせて見えない力となり殺傷行為を引き寄せるのかもしれない、と想像したりしています。

 

こうした視点はやや複雑な霊的視野になるのかも知れません。

 

ある意味では加害者は被害者のカルマの解消のために神の厳然たる摂理が働いて神によって作られた要素がある、、と考えることも出来ます。

そう考えると、加害者はその一点のみについては神に情状酌量の要素として評価されるのかも知れません。


神は完全なので、それぞれの霊的背景にふさわしい状態で、
被害者のカルマの解消の兼ね合いと、
加害者の学ぶべきカルマとの兼ね合いが
「一分の隙もなくパーフェクト」に噛み合っているはずだと想像します。


被害者のカルマの解消の手伝いをするという意味では、加害者に憑依して加害行動を促した憑依霊は霊的な「仕事」をしてくれている、という要素もあるように思います。
(憑依霊にそういう意識があるかどうかは解りませんが)

 

つまり憑依霊などの低級霊はより高次の霊的存在、究極的には神(大霊)からのコントロールを受けて(神の管理下で)そうなった=加害行動に至った、、、そんな要素もあるのかもしれません。


まったくの想像にすぎませんが、
こうした殺傷事件で殺された被害者が霊的に成熟していた場合、
殺された直後は混乱するでしょうが、やがては真理を悟り、今度は自分が霊的な「仕事」をするべく自分を殺した加害者の「霊的成長」の為に恩返しとして努力するようになるのかもしれません。


神が加害者に与える情状酌量の余地が、被害者の霊からの霊的サポートという形で返ってくるのかもしれません。


もしこんなケースがあった場合、こうした霊の働きを
「怨霊の祟り」と解釈するのか、
「神の愛の現れ」と解釈するのかは
各々の霊的な個性によるのかも知れないと想像しています。

 

 

無差別的な殺傷事件のような恐ろしい殺傷事件が起こるたびに考え込んでしまいます。

 

その事件に憑依が関係しているとして、果たしてその事件を防ぐことが出来たのか?

もし防げたとしたら憑依の進行がどの段階でどう手を打てば防ぐことができたのか?

事件を防ぐことが出来たとしても霊的に相当高いハードルを乗り越えなければならなかったのではないか?

そんなことが本当に可能だったのか????

 

一体何がどうなっているのか…。

こうしたことを色々と考えたりしますが結局はよく解らないままでいます。

 

 

唯一確かなことは

神は間違わない。

ということだと思います。

 

ただ神に祈るばかりです。

(憑依について6に続きます。)