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スピリチュアリズムでおはようSUN

シルバーバーチの志を学んでいます

修行とは何のためにあるのか?

霊的学び

滝に行ってきました。

僕の中では滝行は個人的な娯楽の一種で、
趣味的なものです。

 

スピリチュアリズムでは極端な肉体行は
オススメは出来ないものとして否定されています。

 

なぜその「行」をやるのかという動機にもよりますが、
「行」をすることによって低俗なエゴ性を強めてしまいかねない
危険性があるからです。

 

霊的真理の知識がなく

物質的価値観の束縛が強い「この世」的な思いで

修行をするのは確かにあまりよくないと僕も思います。 

 

「行」をする行者の動機に邪なところがあると、
低級霊系の霊的世界に通じてしまい
肝心の霊的成長に支障をきたす恐れがあります。

 

霊的真理の知識はスピリチュアリズム普及会さんのサイトで学ぶことが出来ます。

スピリチュアリズムとシルバーバーチの霊訓の総合サイト〜スピリチュアリズム普及会

 

僕としても修行に伴う危険性は重々承知しているつもりなのですが。。。

 

ただ何となく縁のようなものも感じていまして、
滝から学ぶこともあると思いますので
趣味としてボチボチと続けていきたいと思っています。

 

「滝から学ぶ」というのは最近感じるようになったことです。

 

滝行をやり始めた時は

山、川、草木、花、風、鳥、等々の自然から

「学ぶ」「学ばさせていただく」

という意識はありませんでした。

 

まだまだ未熟な僕が言うのも恥ずかしいのですが、

「行」を続けていく中で

自分の魂が耕されて

知らず知らずの内に霊的な成熟があったのかも知れません。

 

滝に入ってすぐの間は冷たさと寒さと衝撃で心がざわつく時間があります。

すごく呼吸が苦しいです。

覚悟を決めて気合を入れて滝に入っても

心のざわつきはしばらく続きます。

 

しかし不思議なもので、ある一定期間を過ぎると身体が慣れてきて、

冷たさや寒さや衝撃からくる肉体の「苦しさ・辛さ」のようなものが

ましになってきます。

峠を越えて何となく落ち着いてくるような感じです。

 

心のざわつきが終わり、魂が鎮まってくるような感じです。

腹が据わってくる、といいますか。。。

 

これをスピリチュアリズム的に説明すると

滝に入った当初はまだ

肉体的なパーセンテージが大きい感覚があるため

苦しみや心のざわつきを感じるのかもしれません。

 

それが峠を越えるように徐々に肉体的感覚から

霊的感覚に移行していくことで、当初感じていた

肉体の苦しさが緩和されてくるのではないかと思います。

 

 

肉体的パーセンテージ大(肉主霊従)→肉体的苦しみ感・大

霊的パーセンテージ大(霊主肉従)→肉体的苦しみ感・小

 

こんなイメージでまとめることが出来ると思います。

 

 

死にいたる過程(病苦など)においては肉体的な苦しみを感じる場合もあると思います。

しかし肉体と霊体のシルバーコードが切れる実際の「死」に際しては苦しみは感じないと学んでいます。

 

人が死んでいく過程にも同じことが言えるのかも知れません。

 

肉体的パーセンテージ大の時は苦しみを感じますが、

肉体の弱体化とともに

霊的パーセンテージが大になると苦しみを感じない。ということだと思います。

 

修行には死の疑似体験を学ぶという要素もあるのかも知れません。

 

 

僕は滝から出るとすぐ、その日の最後の締めに川の水で水垢離を行います。

実はこの水垢離が滝行よりも冷たくて辛いのです。

そしてその川の水で顔を30回ほど洗います。

 

 

寒さと冷たさで身体を動かすのが苦しく、動きがスローモーションになります。

何かを考える余力は最早ありません。

 

その日の僕は滝に向かって

「ありがとうございましたー!」

と礼をしながら絶叫していました。

 

なぜかは解かりませんが、本当に行場がありがたいと思ったのです。

 

「行」が終わってからしばらくたつと

心にジワジワと湧き出るように浮かんできた考えがあります。

 

それは

「愛こそ本当の修行」

というワンフレーズです。

 

ああ。まさその通りだ。と思いました。

 

本当の修行は

「愛」

なのです。

 

滝行などの宗教的な修行は本当の修行ではなく

本当の修行を行う前の準備運動・擬似的な練習のようなものにすぎない。

と思います。

 

修験道には

「山の行より里の行」

 という言葉があります。

 人生という現場こそが本当の行場なんだと思います。

 

滝などの行場での修行は

人生の現場という行場の一部に過ぎません。

 

 

滝などの行場での修行は擬似的な修行。

人生の現場という行場での修行こそ本当の修行。

 

擬似的な修行を行う場合はこうした謙虚さを

忘れてはいけないと思います。

 

 

ただ擬似的な修行の醍醐味は、

人生において極めて重要なことではあるけれど

人生という現場では忘れがちな

誰もが気にもかけないごくごく当たり前のことを

修行を通じて、

むき出しになった魂を通じて

魂のレベルで、

魂が絶叫するように

骨の髄から確信納得する。

というところだと思います。

 日常を見る目が変わるキッカケになると思います。

 

 

知識として頭で学ぶのと、

叩きのめされて叩きのめされて

魂のレベルで骨の髄から学ぶのとでは違いがあると思います

その解かり方。納得得心の仕方。が根本的に違います。

 

 

愛こそ本当の修行

 

それはあまりにも当たり前のことで

まさに真実であると思います。

 

 

霊的な存在から直接手渡しするように

何かを教えてもらう。

何かを学ぶ。

 

その内容はごくごく当たり前のことで

「そんなことぐらい、わざわざ修行しなくても知ってるよ」

と一笑に付される様な

あまりにも単純なことかも知れません。

 

しかし

まさにだからこそ修行はあるのだと思います。