スピリチュアリズムでおはようSUN

シルバーバーチの志を学んでいます

例え殺される未来が待っていたとしても…

修験道に次のような信仰があります。

 

「苦しい厳しい修行を行うことにより、自分がなしてしまった過去の罪業が消滅し心身が浄化される」

 

というものです。

 

この信仰を霊的真理に照らし合わせて考えますと、

霊的には間違った信仰と言わざるを得ません。

 

 

「自分がまいた種は自分で刈り取る。よい事も悪い事も。」

 

というのが霊的真理だと思います。

 

良い種をまけば良い結果が現れ、悪い種をまけば悪い結果が現れる。

これが神の厳然たる摂理であり、神の愛であると思います。

 

 

自分がなした悪いこと(カルマ・摂理背反)が、苦行によって、つまり人為的・意図的に作り出した「苦しみ」によって振り替えられて「消滅する」なんてことは有り得ないと思います。

 

自分がやってしまった「カルマ・摂理背反」は自分で責任を取るのが神の愛であり

その罪を「勘弁してもらう」「別のものに振り替えてもらう」のが神の愛ではありません。

 

神の公正は完全です。

 

神の摂理は人間の想像を絶するほどに天文学的に正確無比であり、

巨大な宇宙のどこを探しても、また霊界のどこを探しても

一分の隙もないほど完璧であると信じます。

 

自分がなした「カルマ・摂理背反」は自分で刈り取るほうが

喜ばしいことであり、祝うべき慶事なのだと思います。

 

しかし実際にカルマを自分で刈り取っている現場では

「苦しみ・悲しみ・不幸・不条理」

がやってきたかのように地上的な視野では感じられたり見えたりするので

つい混乱が生じるように思います。

 

 

少し極端かもしれませんが解かりやすい例を用いますと。。。

 

もし自分の過去生で人を殺しているカルマがあるとしたら

今生でそのカルマを刈り取るのが、つまり「殺人の被害に会って殺され返す」のが

神の公正であり、喜ばしいことであり「神の愛」なのだと思います。

 

もし自分が将来そのようにして「殺され返す」運命が待っていたとしても

神に全てをお任せし、「それならそれでどうぞよろしくお願いします」と

その「殺され返す」ことを自ら進んで望むように願い出るように神に祈ることが

神への正しい祈りのあり方ではないか。。と思います。

(もちろん自分の霊的履歴は知りえないことではありますが、だからこそ神への信頼が試されるのだと思います)

 

 

修行苦行の目的は神の完全にどこまでも身を委ねた

覚悟を決めた不動心を培うことが目的のようにも思います

 

「何が起ころうとも…、例え自分に殺されるという運命が待っていても、

どうぞ来るなら来て下さい。ありがたく受け入れます。それが霊的成長にとって必要だと確信します。私は神を疑いません。その完全さを、その叡智を、その愛を疑いません。」

修行を通じてこんな感じの覚悟が決まると良いように思います。

 

 

地上的な一般常識で言うと「殺されること」は不幸以外の何物でもありません。

しかし霊的視野では「不幸」はある意味では有り得ないのだと思います。

 

こうした理解に達すれば、その「心のありよう」において

それまでの「不幸・不条理」の捉え方の状態が変化・変容した結果、

「かつての不幸の感じ方・不条理の捉え方」が消滅すると解釈(表現)することも出来るのかもしれません。

 

 

霊的真理を学ぶと

苦しみを「不幸・不条理」と捉えるのではなく、

むしろ「神の公正・神の愛」の証明と捉えてこれに感謝することが出来ると思います。

 

 苦しみの感じ方が変容すると思います。

 

そして結果的に苦しみの感じ方が軽減されるように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

H係長のこと

僕はダム管理の仕事をしているんですが、管理は公的な機関がやっていましてね。
職員さんは公務員です。

うちの会社はそれを支援する業者になります。

 

山奥での勤務で普段はのどかなものです。

職員さんの一人にH係長という方がおられましてね。
結構キャラが濃い方なんです。

 

容姿は芸人さんの芋洗坂係長によく似た感じで
どっしりと大きな身体をされてましてね。
小さなことにはこだわらない大らかな性格の方です。

 

大らかな性格と言ってもいいように表現するとそうなりますが、
別の言い方をすれば「だらしがない」とも言えるわけでしてね。

 

いつも無精ひげをはやしておられ、
裾がやぶれた仕事用のズボンを履いておられましてね。
かなり寒い時期でもTシャツ一枚です。
そのTシャツもいつ頃から使っているのか解りませんが
洗いすぎで生地が薄くなりすぎているようで
パッと見ると乳首が透けて見えてるんです。


言ってはいけないことですが、周りからは
「頭の中も裸の大将」なんて陰口を言われています。

でもH係長は一向に気にしないご様子です。

 

僕が特に気になっているのはH係長の机の上でしてね。
書類などを無造作にグチャグチャに積み上げてあるんです。

机の上をこんな錯乱した状態にしていたら
出来る仕事も出来なくなるのではないか?とつい思ってしまうほどです。

 

だらしのない状態は霊的にもマイナスがマイナスを呼ぶような

すごく良くない状態だと思います。。。

 

整理しはったらいいのにな…。。
といつも思うのですがそんな直言することも出来ず
なんとかならないものかと気をもんでいたんです。


ちょうど一年前の7月末のことですが僕とH係長の二人でダム湖の水上巡視に行きましてね。僕が巡視船の運転をしまして。

 

ダム湖の上流の上限まで行って、さあこれからUターンして帰ろうというときに事故が起こったんです。

水深の浅いところまで行きすぎて、水中に岩がたくさん突きでている処に
入り込みまして。

 

身動き出来ないところを強風で流されて巡視船のスクリューが川底にあたり舵がきかなくなるという事故だったんです。

 

もちろん船長である僕の責任なんですが事故処理に大変な思いをしました。


それから丁度一年経ちまして、今年の7月末にまたH係長と二人で水上巡視に行ったんです。

今年は去年のような事故をしてはいけないぞ、と入念に気合いを入れて行きました。
出航前に守護霊にも祈りましてね。

「どうか無事に帰ってこれますように」と。

 

去年の事故から水上巡視の際は事前にどこでUターンするかという視察を事故防止策として行うようになりまして。

 

その視察も責任上、全部僕がやっていたんです。

 

今回も事前視察をやって満を持してH係長と水上巡視にいったんです。

出発してから1時間経ちまして、さあこれからUターンして帰ろうという時です。
実は今回もまたトラブルがありましてね。

 

前進と後進をコントロールするスロットルレバーがおかしくなったんです。
通常はスロットルレバーを前に倒すと前進で、後ろに倒すと後進なんですが、スロットルレバーを前に倒しても何故か「後進」し始めたのです。

 

その時までは普通に運転できていたんですけどね。
今回は何かにぶつかったとかは無い状態でそうなりまして。
わけが解らんわけです。

そのうちスロットルレバー自身が効かなくなりまして、
前進も後進も出来なくなって完全に操船不能の状態になったんです。

 

ちょうどUターンして帰ろうというときのタイミングでして
状況的に一年前とほぼ同じ状態です。

 

「こんなことあるかなあ…。。」
という状態でですね。

 

もう意味が解りませんわな。

 

それから救助を呼んでですね。

 

巡視船は2隻ありますので、もう1隻で他の職員さんと僕の上司がやってきてくれまして。
その船に曳航してもらって帰航したんですけども。

 

今回は巡視船の機械の問題だったんですが
もう格好悪くてですね。

 

2年連続でこういう状況になるなんて
「どないなっとんねん!」

ですわな。

 

操船不能になって救助船を待っている時にH係長としみじみと話をしましてね。

 

「もってますよね。」と。

 

こんな偶然はないだろうというような偶然の事件です。

 

「何たること…。出航前に守護霊にもお祈りしてこの結果とは…。
何か結構重要な霊的原因があるはず。。。」

と思いましてね。

 

もちろん霊的には偶然というものは無いわけですから。

霊的世界の関与は必ずあると思いましたが、
どういう意味があるのかと色々考えました。


「天の意志・霊界の思惑」

といったものはどんな出来事にもあるわけですが、その霊的解釈は様々に出来るわけで…。

さて。それをどうのように解釈するか。。。

こうしたところに霊的な個性が現れるんだろうなあ。
と思いながら考えたんですけども。

 

一瞬、H係長がマイナスを引き寄せたんじゃないか…?
もしかすると低級霊的世界では実際そういう要素があるのかもしれない…。。。
とも思いましたけども。

 

でも、その解釈はあまりよくない。と思いましてね。

 

他に責任を転換する発想はそれ自体が低級霊的ですのでね。

全部自分に責任はあるはずだと思いなおしまして。

 

では僕はどうするべきだったのだろう?と思いますと。

船の機械の構造を知る努力をしていなかったのが原因かな?
とも思いました。
しかし機械屋でもないし、設備屋の僕としてはややハードルが高いのではないか?とも思いますしね。
ただ今まであまりにも機械の勉強はしていなさすぎだったので努力はしないといけないな…と思いました。

 

それ以外には船の操船については問題なかったはずですし、巡視前の事前視察も行って準備は怠ってないわけです。

 

もしかするとH係長の背後霊が僕になにか言いたいことがあって
現象を起こしたということもありうる…と思いましてね。

 

失礼かもしれませんが、もしかするとH係長には「愛」が足りないのかな?と思いましてね。

H係長は独身で、あまり「愛される」という経験が無いような感じの方でしてね。
慢性的に「愛」が不足しているのかもしれない。と思いまして。

 

H係長の為に「愛」のあるお祈りをしてみようと思ったわけです。

 

祈りは常に神(大霊)にとって良きものです。

 

愛を込めた祈りを通路にして霊界が働きやすくなり
H係長に何らかの変化が現れるかもしれない。と思いましてね。

 

今までH係長のだらしなさに気をもむ事はあっても

それを傍観するだけで自分から何か行動してみるということはありませんでした。

祈りの効果を知っているはずなのに…。。

「これはいかん。」

「ようし。やってみよう。」と思いましてね。

 

その日以来、こっそりとH係長の為にお祈りしているんです。

 

「神よ。H係長というあなたの子が神の愛とともにあり
神として幸せでありますように」
「H係長の守護霊さま背後霊さま、どうかよろしく導いてあげてください。」

 

こんな感じでですね。

もしかしたらH係長の机が整理されて綺麗になるんじゃないか?
だらしのない外見も小綺麗になるんじゃないか?

そして霊界からのサポートがありH係長を愛する人も現れるんじゃないか?と願いながら。。。

 

H係長の親御さんになった気持ちで、親が子を優しくあたたかく見守る気持ちで「愛」を送る祈りをしています。

 

エスは「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言ったそうですが
隣人愛とはこういう些細なことを言うのかな?と思うようになりましてね。

 

祈りには時間と集中力を使いますし、心を整えて

一手間かける必要があります。

 

宗教者に祈祷を依頼すれば謝礼が必要ですが、こちらは見返りはありません。

ただ隣人の幸せを祈るのみです。

こうした祈りはなるほど霊的にすごくいいと思いましてね。

それに気付かせて頂いて、また隣人愛の実践をさせて頂いて
H係長には感謝しないといけないなあと思っています。


もしかすると霊界はこういうことが言いたかったのかな?なんて思ったりもしています。
今回こういう事件が起こらなかったら気が付かなったと思います。


それからなんですが。。。

 

あれから3週間ほどたちましたがH係長には今のところ特に変化はありません。
相変わらず机の上は書類で山盛りのグシャグシャ状態ですし。。。
だらしのない外見も相変わらずです。

 

霊的な世界では何かの変化はあるとは信じたいんですけども。。。

霊界も努力はしてくれているとは思うんですが
現象面でどういう現れがあるかは計り知れないところだと思います。

 

とりあえず経過を観察しながらお祈りは続けたいと思います。

H係長に何らかの変化があってそれに気付くことがありましたら
またブログで報告したいと思います。

 

憑依について8 憑依の予防策

憑依についての最後に憑依の予防策について思うところを書こうと思います。

憑依が何故起こるのか?といった憑依のメカニズムについては

スピリチュアリズム普及会さんのサイトで学ぶことが出来ます。

憑依現象と除霊について

僕は何度も同サイトで学ばせて頂きました。


憑依が何故起きるのかといいますと、
第一に本人の霊的背景・カルマからくる要因によるものであって
僕の理解では徹頭徹尾、本人自身の問題であると思います。

 

憑依の問題は究極的には自分自身の努力で解決するしかないと思います。
自分で努力するのが遠回りしているように見えても
結局は一番早い解決法だと思います。

 

自分自身に克服すべき人間的弱点、欠点、考え方生き方の悪さがあるからその土台に
憑依霊が乗るのであって、むしろ憑依霊は「その弱点を克服しなさいよ」と
間接的に教えてくれているありがたい存在なのだと思います。

 

そして憑依の原因を憑依霊に求めるのではなく、
自分自身にその原因があったことを理解して、自身の生き方考え方を改めて自分の中から自己中心的な発想、自主性のなさ、暗い気分を排除する努力をしつつ、

神に対する絶対的な信頼を確立しなければならないと思います。

 

しかし憑依があった場合、(それに気付くことが出来たにしても)憑依されている人は自分を憑依霊の被害者だと思ってしまうかも知れません。

 

つい憑依霊などの悪霊が理不尽に「悪さ」「意地悪」をしているから
憑依や霊障が起こってるのだと勘違いしてしまう人もいるのかも知れません。

しかしその視点こそが問題です。

他にその責任を求めてしまう感性そのものが霊的無知からくるもので
低級霊の影響力をむしろ助長させてしまう発想であると思います。
おそらく「その発想は間違ってますよ!」という学びのゲンコツがふりそそがれる、という結果になると思います。

叩きのめされないと人間はなかなか気がつかないものだからです。

 

ニュースとかでよく聞く話は、
こうした憑依や霊障を解決しようとして、
力のある(?)霊能者を訪ね歩き
いかがわしい霊能者に依頼して憑いている霊を払う為の
法外な祈祷代を支払いトラブルになるというケースです。

 

こうした問題でいつも思うことがあります。

法外な報酬を要求する(解りやすい)いかがわしい霊能者が
通じている霊的世界は霊は霊でも低級霊の世界だということです。


いかがわしい霊能者にも霊能はあるのかもしれませんが
おそらく低級霊系のそれであり、ほとんど霊的価値はないようなものだと想像します。


そういう怪しい霊能者自身が「低級霊的」である要素が大きいし、またそういう人にすがってしまう依頼者も「低級霊的」なのだと思います。


そして怪しい霊能者と依頼者の双方に低級霊が憑いているという低級霊団が霊的親和性で寄せ集まり、田舎芝居的なことをしているのではないかと想像します。

 

霊的なことには低級霊的なものと高級霊的なものと
大きく分けて二つの霊的世界からの視点があると思います。


一番やってはいけないのは低級霊にピントを合わせてしまうというそれです。

よくある話で「先祖の祟り」があるので供養しなければならないとか
「怨霊が怒っている」ので謝ってご機嫌をとらなければならないとか
力のある霊能者に悪霊を払ってもらわなければならないとかの
低級霊的な話を聞きますが、そういう話は「低級霊的」であるというその時点で全て無視して良いと思います。


そもそも怨霊やオドロオドロしい地縛霊・未成仏霊といった低級霊の世界にあまり意識のピントを合わせるべきではないと考えます。

 

心のベクトル(矢印)は常に神(大霊)に向けておかなければなりません。

それが低級霊に対する最大の防御法だと思います。

 

しかし霊は霊でも低級霊の世界に心のベクトルを向けてしまうと
実際にその世界に自ら入ってしまうことになるので注意が必要です。


低級霊の世界は低級霊の世界であるにはあると思いますが
無限に広がる果てしない世界であって、
泥沼に自ら入る愚を犯すべきではありません。


低級霊の世界はどうでもいいものとして、
最初から興味を持つべきではないものとして
切り捨ててしまってもいいのではないか?と考えています。


その意味で唯物論的な人が「霊なんかいない」と
霊的なものを切り捨てる態度にはある意味では一理あると思います。

 

低級霊的なことに中途半端に興味をもつくらいなら、
「そんなものは存在しない。」として切り捨ててしまうのも
賢い態度のようにも思います。

 

しかしこうした態度の間違いは低級霊的なものと一緒に
高級霊的なものまで切り捨ててしまうことです。

 

とはいうものの何をもって高級霊と低級霊を区別するのか、
その判別の問題があると思います。

また「神(大霊)」とは何かという神の理解が
その人の霊性に合ったかたちで各人各様であるという問題があると思います。

 

心のベクトルを神に向けると言っても、その「神」の理解が(あえていうなら)低ければ、残念ながら低級霊の世界に通じてしまうからです。

 

霊的真理などの霊的な事柄に慣れていない場合は
その価値観が「この世的・地上的」なので
低級霊的なことを高級霊的なこととしてアベコベに受け入れてしまいがちだと思います。
同様に高級霊的なことをつまらないこと、取るに足らないこととして
逆に捉えてしまうのでその結果、その内容がいかにも低級霊的な様々なトラブルが起こるのだろうと思います。


どのように低級霊と高級霊を区別するかは
霊的真理を真摯に勉強する他はありません。

なるべく高級霊的な視点が出来るように、霊的真理の知識を増やす努力をしなければなりません。


霊的知識を積極的に吸収して知識を増やして霊的な理解力を高め、
日常生活では利他愛の実践を通じて意識を高く保ち
心のベクトルは常に「神」に向けながら
明るく楽しくウキウキとした気分で生きることが大切だと思います。

こうしたことが同時に憑依など低級霊に対する防衛策になると思います。


心のベクトルを常に「神」に向けるのです。

「神」への絶対的な確信、信頼があれば恐怖心や不安、取り越し苦労をすることはありません。

 

常に「神」と共にある幸せを噛みしめながら
明るく楽しく心ウキウキと生きることができれば
低級霊系のことなどは全くどうでもよいものとして
意識にも入ってこなくなると思います。

 

まさに低級霊の入り込む隙が無くなることで
結果的にその予防策になるように思います。

 

憑依について7 憑依霊に感謝

霊的な世界の実在を確信した10年前のこの頃は
憑依現象を体験し、不思議な出来事がよく起こっていたように思います。

 

しかしその頃の僕は

「そういう不思議な世界というのはあるんだなあ…。。」

 

という何となくの理解に止まり、それ以上の興味を持つこともなく
やがて普通の日常に戻っていきました。


時間が経つにつれ精神的にも安定し、この時の体験も
過去の思い出になっていきました。


しかしそんな普通の日常を送りながらも
この時の憑依体験のことは心のどこかで覚えていて

「あれは一体なんだったんだろう?」と

時々思い出すこともありました。

 


テレビで心霊番組などをやっているのを見ては
「そういえばあの憑依霊は一体どうなっているのかなあ?」
と思い出したり、


また恐ろしい無差別的な殺傷事件のニュースを見ては
「おそらく憑依現象だろう…。」
「でもどうすれば防げたのだろう?」
と思ったりすることもありました。

 


おりにふれ時々思い出すことはあるものの、積極的に自分から
霊的なことを勉強してみようとは思うこともなく
霊現象を体験してから約8年が過ぎました。


そんな中、ネットで霊的な情報を得ているうちに
知らず知らずのうちに霊的な知識が増えていきました。


知識が増えると面白く感じるもので、
もっと知りたいという思いが出てきて、
ネットだけでなく書籍でも霊的なものを読むようになり
ついに修験道の寺で修行をするようになりました。


その寺というのは、家に縁のあるお寺で
行場が整備されていて家から近く、また不思議な出来事があった寺です。

憑依があった時にアルバイトをしていたのはこの寺のことです。


憑依現象がよく起こっていた当時、
憑依以外にも印象に残っているような不思議な出来事があったことを思いだし、
いてもたってもいられず

 

「今こそ約束を果たすべき時」

と決意して「行」をはじめたのでした。

 

「行」は今でも続けていますが今はかなり
落ち着いた感じになっています。

 

「行」をやり始めた当時は
鉄の意志で決死の覚悟をしていました。
「必ずやり遂げる」と。


自分で決めた「行」を約1年かけてやり遂げまして
生涯の思い出に残るような体験ができて、
やってみて本当に良かったと思っています。

 

「行」をやり遂げた時は本当に感動しました。

 

またその後、スピリチュアリズムの崇高さに感動し、
その道を歩もうと思うことになりましたが、そのキッカケになったのもあの時の憑依体験でした。


そう思うと、あの時の憑依霊には感謝しています。


僕の身体をコントロールした憑依霊が今はどうしているのか
よく解りませんが、あの憑依霊は何らかの霊的な「仕事」を
してくれたのだろうと今では思っています。


おかげで霊的な世界に視界が開かれましたし、
何より霊的真理を学びながら神とともに生きる
霊的人生を歩むキッカケになりました。


こんなに幸せなことはありません。

憑依による苦しみは「神(大霊)」に通じていたのです。

 

否、憑依だけでなく全ての苦しみは神に通じているように思います。


「人生とは苦しみへの感謝」
とはシルバーバーチの言葉です。


苦しんでいる最中はとてもそんな余裕はありませんでしたが
今から考えてみますと色々と思うことがあります。

 


「苦しみ」はどこから来るのか?

考えを突き詰めていくと究極的には
やはり「神」から来るのだろうと思います。

 

「苦しみ」の源泉は「神」であり、
その本質は「神の愛」であると思います。

 


「苦しみ」とは「神の愛」がそのように変換されて
そのような(苦しみという)「感じ方」になっているもの。。。

というふうに今ではイメージしています。


何故そのような「変換」が起きるのか?


その責任は自分自身の霊的背景にあり、
やはりカルマが関係しているのだろうと思います。

 

自分で蒔いた種は自分で刈り取る。それが神の愛だと。


苦しんでいる最中は確かに大変ですが
結果的にそれで霊的に目覚めることが出来るのなら
また霊的に成長できるのなら、
そして何より神に向かって生きていく道が開けるのなら
やはり霊的にはそちらの方が幸せなのだと思います。


「苦しみは神(真理)への扉」

だったのだと思います。

 

(憑依について8に続きます)

憑依について6 支離滅裂な行動

憑依霊に身体をコントロールされる事件が起こる前のことですが
それまでの約1年半の間は精神的に不安定な状態が続いていました。

 

自分自身に何かが起こっているような気がするけど
何が起こっているのか「解らない」苦しみに悩んでいました。


自分の中では明らかに目に見えない何者かが
自分に対して「何かをしている」という気がするのですが
現実的に考えるとあり得ないことばかりで、

そんなことあり得ない…。ということは解るのですが
気になって気になって仕方がないので

「気のせいだから気にしない」ということは出来ない状態でした。

 


テレビやラジオをつけて適当にチャンネルを合わせると
ピタリのタイミングで番組の中で話している出演者が
僕に語りかけているような気がしたりしました。


そうした現象は新聞や雑誌でも起こりました。
適当に開いたページの文章がポンと僕の心の中に飛び込んできて
心に引っかかって仕方がないのです。

 


偶然のようで偶然でない、という感じで
何者かが何かを仕組んで演出しているとしか思えませんでした。

 


そして何者かが僕の一挙手一投足を監視していて
シナリオを作り何かを語ろうとしている…、
という印象が残るのでした。

 


こうした「解らない」苦しみを何とか解決しようと
僕は奇行に及ぶようになりました。

 


テレビ局やラジオ局の放送局のそれぞれの番組に手紙を出しました。

 

「あなた方は僕のことを知っていて何かをしていますね。何をしているのか教えてください。僕が悪いことは謝ります。謝りますからどうか教えてください。ぼくは逃げも隠れもしません。僕はここにいます。」

そんな内容の手紙を30通くらいは出したと思います。


「謝ります」というのは僕が恥ずべき悪いことをしたから
放送局の人が怒ってそんなことをしているという思いこみに囚われていたからです。

 

僕は手紙を出した当初は必ず返事が来ると自信満々でした。

これで解らない苦しみから解放されるぞ。と思って気分がハイになることもありました。

 

しかし待てど暮らせど返事は一向に来ないのでした。

 

僕は落胆すると同時に、
「本当は知っているくせにわざと教えようとしていないのだ。」
と思いこんで恥をかいてしまったことに憤慨してますます苦しくなりました。

 

放送局の人も突然わけのわからない手紙を受け取って困惑しただろうと思います。

 

「解らない」苦しみを何とかしようとして色んな奇行に及びました。

 

何かを実行すれば「答え」を誰かが教えてくれるような気がして
行動するのですが、当然誰も何も教えてくれるということはなく
悶々とした思いで右往左往していました。

 

その当時、僕は大阪で一人暮らしをしながらアルバイトをしていましたが
、一度辞めたバイト先に「もう一度働かせてください。」と直談判で話をしにいった次の日の出勤日に無断欠勤をしたりしました。

 

またある日は
「これから一生、車や電車など文明の利器を使わないで生活しよう!やってみせる!」
と思いたち大阪から奈良県の実家まで約70キロの道のりを歩いて帰ろうとしたりしました。

 

その時は「これからは金は使わない。文明の利器は使わない!」と心に決めて出発したので無一文でした。

 

しかし実家まであと10キロくらいで力尽きて、あるガソリンスタンドで電話を借りて姉に車で迎えに来てもらったりしました。

 

ガソリンスタンドの店員のおじさんに大阪から歩いてきたと事情を話すと哀れんでくれて「わしもいつどこでどないなるか解らんから…」とクリームパンを恵んでもらったことを覚えています。

僕は恥も外聞もなくクリームパンをむさぼるように食べたのでした。

 

しかもその次の日には何も言わずに大阪に電車で戻ったりして
支離滅裂な行動に周りは大迷惑だったと思います。

 

文明の利器を使わずに生活したら、何かをしている何者かが評価してくれて

出てきて「答え」を教えてくれるかもしれない、という思い込みに囚われていたのです。

 

また自分が今まで出会ってきた全ての人に一人一人お会いして一人ずつ謝っていこう、これからの人生を謝罪の旅に費やそう。と考えたりもしました。

 

これも全ての人に謝り尽くしたら「答え」を教えてくれるかも知れないと思っていたのでした。

 

このように「解らない」ことを解ろうとして色んなことを試みるのですが、全て空回りに終わるのでした。


その当時ある人に
「悪いことをすれば必ず自分に返ってくる」

と言われて妙に印象に残っていましたが、ある日何か解らない恐怖心に苛まれてある妄想に囚われました。

 

その妄想というのは(汚い話になり申し訳ありませんが)自分の部屋に今まで自分がやってきた大小便がトイレから逆流して全て戻ってくるのではないか?という妄想です。

部屋に帰ったら自分の部屋が自分の大小便で一杯になっているのを想像して恐ろしくてビクビクしていました。

 

「自分はなんと申し訳ないことをしてきたのだろう」と恐ろしくなり
「これ以上このトイレを使うわけにはいかない」と思って
わざわざ近くのコンビニや公衆トイレで用を足しに行ったりしました。

 

「悪いことをすれば必ず自分に返ってくる」

とは勿論こういう意味ではありませんが、当時の僕は

「では一体どうすればいいのか?」と真剣に頭を抱えていました。

今から考えると下ネタ好きの低級霊(僕のこと?)に翻弄されていたのかも知れません。


今では笑い話のようですが、当時は真剣に見えない何かと戦って
クタクタになっていました。



自分の行動がとんでもないものであったとしても
何とかしなければといたたまれない気持ちでハラハラとして、

とにかく行動せずにはいられない必死さがあったように思います。

 

(憑依について7に続きます)

憑依について5

今から考えると、憑依が深刻化ていた時というのは
霊的に虚弱な状態にあったように思います。

 

霊的な知識も経験もなく
「憑依」という言い方があることも知りませんでした。

 

全くの徒手空拳の状態で何かどうなっているのかを手探りしながら
右往左往していたように思います。

 


しかしあれから10年経過し、霊的真理の勉強をし
また修行をはじめ様々な経験を得ることで
何となく抵抗力がついたように思います。

 


しかし霊的に虚弱な状態だった当時は
おそらく危険な状態だったように思います。


憑依による「殺意」を感じたのもその頃です。


「~しなければならない…。。」
という強い強迫観念があったと記憶しています。

 

「自分が死刑になってもいい。家族が悲しんでもいい。
今まで積みあげてきた自分の人生が台無しになってもいい。
むしろそれほどまでに、それくらいに、
あいつは殺されて当然の奴なのだ。」

 

こんな感じの強い「義務感」があったように思います。

 

憑依が深刻化すると何らかの事件、事故が起こるように思います。

憑依が進むと確かに心神耗弱状態です。その人の理性は相当弱まっている状態だと思います。


最近でもありましたが、通り魔的な殺人事件、無差別殺傷事件など、憑依が関係していると思われる事件について興味がありまして色々考えたりしています。

 

こうした事件の容疑者は犯行時は心神耗弱状態で刑事責任が問えるのかという議論があります。

要は頭がおかしくなっているので罪は問えないのではないか?
という意見です。

確かに一理ある意見だと思います。


では霊的な責任はどうなっているのかを考えてみます。


無差別殺傷事件の容疑者は憑依を受けている要素があるにせよ
そこまで憑依を深刻化させてしまった責任は
その人自身にあるように思います。

 

低級霊に憑依される原因は
厳しい言い方になりますが
その人自身が低級霊だから。という要素が
大きいと思います。

 

また憑依の究極的な原因は憑依される人の
カルマにあると思います。

 

憑依による苦しみは、憑依される人のカルマの解消のために必要なものであり、

そのおかげで霊的成長の道を歩めるのであるから、その苦しみは霊的にはむしろ喜ばしいこと、と学んでいます。


憑依されている人は憑依されていることを自分で気づき、
またその原因が根本的には自分にあることを洞察して
自分の生き方考え方を改め、霊的成長の道を歩むよう努力しなければならないのだと思います。

 

なので憑依霊を一方的な悪者と解釈するのは間違っていると思います。


また一方で、憑依している霊は霊でその霊自身に霊的な責任があるように思います。

 

例えばある人物に悪意を持って取り憑いて自殺させたり、殺人を犯させたりした低級霊の場合はその霊自身がそれ相応の責任をとらされることになると思います。

摂理は完璧ですから。

 

ただ、中には憑依霊自身に自分が憑依しているという自覚がないものもいるようです。
それは地上人に自分が憑依されているという自覚がない人がいる場合とよく似ています。

色々なケースが考えられますが、どのような状況であれ摂理によって自動的にそれぞれそれ相応の正確無比な霊的責任が発生しているものと思われます。

 

 


恐ろしい殺傷事件が起こった場合、加害者側だけでなくその被害者側の

「殺傷を引き寄せた要因」も連動しているはずだと思います。

 

地上的視野でみると殺傷事件の被害者は
頭のおかしい加害者によって一方的に理不尽に
殺害されてしまった運の悪い人、かわいそうな人になると思います。

 

しかし霊的視野で見ると偶然というものはありません。

 

その被害者の殺傷被害にはその人のカルマが原因しており、
カルマを解消するために自身が殺傷されるという被害の経験が必要だったために、神の厳然たる摂理が働いてその加害者を見えない力で引き寄せて加害行為に至らせた可能性があると思います。

 

ある意味では加害者は被害者のカルマの解消のために
何らかの霊的な「仕事」をした、と考えることもできます。


僕は憑依が深刻化していた時に「義務感のような殺意」の感じを受けましたが、被害者側のカルマという霊的因子がそのような感じを起こさせて見えない力となり殺傷行為を引き寄せるのかもしれない、と想像したりしています。

 

こうした視点はやや複雑な霊的視野になるのかも知れません。

 

ある意味では加害者は被害者のカルマの解消のために神の厳然たる摂理が働いて神によって作られた要素がある、、と考えることも出来ます。

そう考えると、加害者はその一点のみについては神に情状酌量の要素として評価されるのかも知れません。


神は完全なので、それぞれの霊的背景にふさわしい状態で、
被害者のカルマの解消の兼ね合いと、
加害者の学ぶべきカルマとの兼ね合いが
「一分の隙もなくパーフェクト」に噛み合っているはずだと想像します。


被害者のカルマの解消の手伝いをするという意味では、加害者に憑依して加害行動を促した憑依霊は霊的な「仕事」をしてくれている、という要素もあるように思います。
(憑依霊にそういう意識があるかどうかは解りませんが)

 

つまり憑依霊などの低級霊はより高次の霊的存在、究極的には神(大霊)からのコントロールを受けて(神の管理下で)そうなった=加害行動に至った、、、そんな要素もあるのかもしれません。


まったくの想像にすぎませんが、
こうした殺傷事件で殺された被害者が霊的に成熟していた場合、
殺された直後は混乱するでしょうが、やがては真理を悟り、今度は自分が霊的な「仕事」をするべく自分を殺した加害者の「霊的成長」の為に恩返しとして努力するようになるのかもしれません。


神が加害者に与える情状酌量の余地が、被害者の霊からの霊的サポートという形で返ってくるのかもしれません。


もしこんなケースがあった場合、こうした霊の働きを
「怨霊の祟り」と解釈するのか、
「神の愛の現れ」と解釈するのかは
各々の霊的な個性によるのかも知れないと想像しています。

 

 

無差別的な殺傷事件のような恐ろしい殺傷事件が起こるたびに考え込んでしまいます。

 

その事件に憑依が関係しているとして、果たしてその事件を防ぐことが出来たのか?

もし防げたとしたら憑依の進行がどの段階でどう手を打てば防ぐことができたのか?

事件を防ぐことが出来たとしても霊的に相当高いハードルを乗り越えなければならなかったのではないか?

そんなことが本当に可能だったのか????

 

一体何がどうなっているのか…。

こうしたことを色々と考えたりしますが結局はよく解らないままでいます。

 

 

唯一確かなことは

神は間違わない。

ということだと思います。

 

ただ神に祈るばかりです。

(憑依について6に続きます。)

 

憑依について4


憑依霊が出てくることで「解らない」ことから来る苦しみは半減したように思います。

 

そもそも物質的な尺度では捉えられないものを
物質的に解釈しようとして無理が生じていたのでした。

 

「解らない」苦しみは
「霊的なことなのだから、解らなくても仕方がない…」
と納得することで落ち着いたのでした。

 

僕の身体をコントロールした憑依霊がその後どうなったのかは解りません。

 

自分の死を自覚し、いわゆる成仏をしたような状態になったかどうかは不明です。なんとなくそんな気もするし、よく解かりません。

 

もしかしたら背後霊(因縁霊?)として今でも側にいるのかも知れませんが、いずれにせよ僕が霊界に行ったときに解るかもしれないと思っています。

 


そしてもう一つ印象に残っている憑依の経験があります。
それは憑依によって「殺意」を感じた経験です。

 

身体をコントロールされた事件が起こって間もない時です。

 

僕は家に縁のあるお寺で父とともに
家業の建築業のアルバイトをしていました。

 

そのお寺には大小様々な蛙の置物がたくさん置かれているのですが、

その蛙の置物を作業の支障にならないよう脇に避ける為、
抱えながら運んでいたときの事です。

 

僕はその蛙の置物を抱えながら電気に打たれたような衝撃とともに
「これは自分の赤ん坊だ。こんなところにいたのか。」
と思ったのです。


「ああ。そうだったのか。そうだったのか。」
「やっと見つけた。こんなところにいたのか。やっと見つけた。」

 

と思って涙が溢れました。

 

何故蛙の置物を自分の赤ん坊と思っているのかは解りません。

その寺に蛙の置物があることはずっと知っていましたが
その時初めてそんな感じ方をしました。


今から考えると、
その時の僕の思考や感じ方が憑依霊等の霊的な影響によって
コントロールされてそのように思ったのだろうと思います。


そして
「自分の赤ん坊は大丈夫だろうか…。」
「こうしてお寺で供養されているので安心のはずだが…???」
などと思うのでした。


そのように感じながらも仕事の作業は続けていました。

 

お寺のある事務員さん(仮にAさんとします)が僕の側を通りかかりました。
Aさんとは普通に挨拶する程度の間柄です。

 

特に話したこともなく名前も存じ上げない仲でした。


普段はAさんのことを特に気に止めることもなかったのですが
この日Aさんが通りかかった時、
蛙の置物に何か悪さをするのではないか?

という思い込みに囚われました。

 

「悪さ」というのは蛙の置物を蹴ったり壊したり邪険に扱ったりするようなことをイメージしていたと思います。

 

「絶対に許さない!」
「もしそんなことをしたら、あいつを殺してやる!」
という殺意を抱きました。

 

僕はAさんの行動を目で追いながら
Aさんが蛙に手をかけるかどうかを注視していました。


僕はその時「しの」という金属製で先のとんがった
大工道具を持っていました。


もし何かAさんが蛙の置物に変な行動をとるようなら
この「しの」で刺そうと思いました。


「しの」を握る手に力を込めながら
その時がくるかどうかを待ちました。

 

普通「殺意」といっても実際にはリアルに想像出来ないと思います。


しかしその「殺意」は
「これが本当の殺意というのか…。」
と思う程の強烈な「殺意」でした。


「もうどうなってもいいんだ!」
「あいつを殺さねばならない!」
「あいつを殺すために自分は生まれてきたのだ!」
「自分の全人生はあいつを殺すためにあった。」
という

 殺すことに対する「義務感」

 のように感じられました。

 

このような殺意に囚われたら

 

 「止まるものではない。」

 という印象が残っています。

 

僕は仮設の建物の上に登っていましたが、上から威嚇するように
Aさんに「殺気」を放ちました。

 

Aさんが妙な気(?)を起こさないように
「殺気」による威嚇で相手の行動を封じようとする意図もあったように思います。

 

「しの」を握る手に力を込めて
全身全霊の殺意で突き刺すように
「殺気」を飛ばしました。

 

その時の僕はおそらくこの「殺気」をAさんも気付いているだろう、と思いました。


僕がそんな状態で威嚇する体勢で構えている時に、
父が僕に声をかけました。

 

僕は少し正気に戻りました。

 

実は「殺気」を放っているときも意識のどこかでは

 

「これはおかしい。。。」
「また霊現象か…。。。」

 

という感覚はありました。

 

何故自分はほとんど見ず知らずの人を
蛙の置物というよくわからない理由で殺そうとしているのか?

 

この「殺意」はどこからきているのか?

 

明らかにおかしいことは「意識」のどこかで
感じていたと思います。

 

また父がすぐ目の前にいるのに
そこで殺人事件を起こすわけにはいかない
という「意識」もあったように思います。


僕は殺気を飛ばすのを止めて作業に戻りました。

 

作業をしていると「殺意」のタイミングがズレてしまって
先程までの殺意が失せていきました。


そして「自分には(殺しは)出来ない。」という思いを抱きました。
と同時に涙が止めどなくあふれ出ました。

 

「自分には出来ないんだ。」と。

 

その時は木材を3~4人で運ぶ作業をしていましたが
涙があふれ出続けている状態で作業をしました。

 

その場にいた人は僕の涙が止まらないのを
見ていたはずですが不思議とスルーされて
作業は普通に行われました。

 

そして先程までのAさんに対する感情も無くなりました。

 

何故蛙の置物を自分の赤ん坊だと思っていたのか?

何故先程までAさんに殺意を抱いていたのか?
キツネにつままれた様によく解りませんでした。

 

しかしその「殺意」は実体実感のあるもので

そうした思いを抱いている地縛霊の実在と

その影響力を確信するのに十分な出来事でした。


以上が憑依によって殺意を抱いたと思われる経験の
あらましです。

 


僕は実際には人を傷つけることはありませんでしたが、
世の殺人事件や無差別殺傷事件などの通り魔事件は
低級霊の憑依による影響が大きいように思います。


こうした事件で逮捕された容疑者が

「誰でもよかった。殺せという声が聞こえた」

といった供述をしていることがあると思いますが、
おそらく憑依霊の声を聞いているのだろうと思います。

 


その「殺意」はおそらく凄まじいもので、
もしそうなってしまったら止まるものではない。
と思います。

 


例えば一人では行動に移せない殺人行動も
「殺意」を持った低級霊がたくさん集まることで
赤信号みんなで渡れば怖くない」的に良心の声はかき消されて
殺意は巨大化し、ついに実行出来てしまうのかもしれない。。。

と想像しています。

 

(憑依について5に続きます)

 

憑依について3

その頃の僕は父に誘われ実家の建設業の手伝いをしていました。

 

ちょうどその時は、家に代々縁のあるお寺のお堂を新築する大工工事に僕もアルバイトとして参加していました。

 

その日の仕事中、ふと父の姿を見た時、
悲しくて申し訳ない気持ちになりました。

 

「自分のせいで父がいじめられているのだ。」という想念に囚われ
「自分が何とかしないと父が大変な目にあわされるだろう。」
「申し訳のないことだ。父に殺されるのならまさに本望だ。」
という思いを抱きました。

 

そして申し訳ない思いと悲しみの思いで
胸が潰れるように苦しくなるのでした。

何故そんな思いに囚われたかというと、
やはり自分が悪いから頭がおかしくなっている。。。
というとまさにその通りだと思いますが、

 

おそらく複数の憑依霊の想念や
イタズラ霊のオモチャとしておもしろおかしく思考がコントロール
されていた要素もあるのだろうと思います。

 

その日の夕食時のことです。

 

僕は酒を飲んでなんとかしようと思い立ち、
その日のしばらく前に買っておいた焼酎を
ロックで呑み始めました。

 

酒を飲めば勇気が沸いてくるだろう、
という思いがあったように思います。

普段の僕は酒はほとんど飲まないのですが、その時は急にアルコール度数の強い酒をガブガブ飲みだしたのです。


しかし不思議に酔っている、という感覚は無かったように思います。


なかなか酔わない、と思っていたこともあると思いますが
もっと飲まないといけないと思い、酒を飲み続けました。

飲んでいくとどんどん悲しみの思いに囚われ
涙が止めどなく溢れました。


涙が止めどなく溢れるのが恥ずかしくて、
涙を止めようと思うのですが、
悲しみで胸が潰れるような思いはむしろどんどん強くなり、

涙は次から次へと溢れ出て自分の意志では止めることが出来ませんでした。

 

その時は夕食時のリビングで、母と姉が家にいたはずですが
不思議と僕の周りから人がいなくなったように記憶しています。


僕は涙を人に見られるのが恥ずかしいという思いもあって、
トイレに行こうと思い立ち席を外しました。

 

部屋(リビング)を出た瞬間、悲しみの思いはますます強くなって、
ついに声をあげて泣き始めました。

 

今まで我慢していたものが堰を切ったようでした。

 

その泣き方は、まさに慟哭でした。

全身の力は抜け、泣き崩れるように
その場にしゃがみこみました。

 

涙は止めどなく溢れる状態で

今の自分の姿を
「見ないでくれ!」「見るな!」
という意識が働き
その時着ていたセーターを脱ぎ
長袖の部分で自分の目を
目隠しするように目を縛りました。

 


目を縛って視界が真っ暗になると
ますます憑依が強まり、
凄まじい悲しみの感情と
暗黒の中で慟哭する存在
そのものになったように思います。


まさにこの時に僕の肉体は完全に
憑依霊のコントロール化に入ったように思います。

 

この時、僕の肉体はトイレに向かって匍匐前進を始めました。
下半身には力は入っていませんでした。

 

床に指を立てるように床を掴みながら
手の力で前に進み出しました。

 

その時の感情は「悲しみ」と「怒り」です。

交互に悲しみの慟哭の波と
怒りの波が押し寄せるような状態でした。

 

天地を貫くような凄まじい感情です。


その存在そのものが「感情」だけの存在。。。
という印象が残っています。


そしてトイレの前まで来るとトイレのドアの手前の床を
手で指を立てて慟哭しながらガリガリと掘ろうとする動きを始めました。


その動きは僕の意志とは別の存在の意志によるものでした。


憑依霊の意志が先行してから、
僕の肉体が追従しているように感じられました。

 

「霊主肉従」とはこのような意味でないことは勿論ですが、

憑依霊のコントロールに肉体が追従するという意味ではまさに「憑依霊」が主体でした。


その時の僕の意識は身体の外に放り出されたような奇妙な感じで
自分の身体をコントロールしている主体が他人(憑依霊)であることが解りました。


憑依霊に対しては
「これは一体誰なのか?」と思いました。

そして何をしようとしているのか、が解りませんでした。

 

 

トイレのドアの前の床を手で掘ろうとする動きの
「脈絡のなさ」「意味不明さ」
に物質的な尺度では説明出来ない何かを感じました。

 

自分の手のはずなのに自分の意志とは別に
床をガリガリと指で引っかくように動き続けるのでした。

 

「これは霊現象だ。」

と直感的に思いました。

 

憑依霊の感情のあまりのリアリティは
まさに「生きている人間」そのものでした。

 

憑依霊の悲しみの感情はそのまま僕の感じ方でもありますが、
僕自身の「意識」とその感情にはどこかにズレがあり
「意識」まで憑依霊と同じではなかったように思います。

 

その時起こっている現象をどこかで冷静に観察している「意識」があり、
その「意識」で記憶していることを今こうして表現している感じです。

 

時間にして5~10分ほどトイレの前の床でガリガリやっていたと思います。

異変に気付いた姉が側に来て
何やら騒いでいたように思います。

 

僕は自分の今(その時)の醜く取り乱している姿を
姉が勝手にビデオカメラで撮っているように思い込みました。

 

そして怒りで周りを威嚇してやろうというような
こちらにかまうな!」という怒りの感情と

「ザマをみろ!」というような嘲笑の感情に
囚われました。

 

何故笑っているのかがよく解りませんが
本当に「可笑しい」感情が伴った笑いです。

 

可笑しくて可笑しくてたまらないというように
腹の底から爆笑するのでした。

 

そうかと思うと次の瞬間には泣いたり
怒ったりで、泣いて怒って笑うというパターンを繰り返しました。

 

外部から見ると精神に異常をきたしているように見えたと思います。
しかし霊的には複数の憑依霊が入れ替わり立ち替わりを繰り返していたのかも知れません。

 

憑依霊は複数いたのかも知れませんが、メインの憑依霊(悲しみの感情の持ち主)は女性のように思われました。

 

僕の仕草や反応は「女性的」なものになっていました。

 

姉と母はその時の僕の状態を急性アルコール中毒でそうなったと
思ったようです。

酔いをさますために大量に水を飲みました。

 

水を飲んでいる最中も、泣いて怒って笑う、を繰り返していました。

そのうち僕の急変を聞きつけて父が帰ってきてくれました。

 

そして僕の手を握り背中をさすってくれました。

 

母や姉が介抱してくれたときは、むしろ反発し拒絶するような態度をとっていた僕(憑依霊)でしたが、父が来てくれた時は反応が違いました。

 

父のことを自分の「夫」がきてくれたかのように感覚していたように思います。
父の手を強く握り「助けて」と言わんばかりにすがろうとするのでした。

 

父は僕の名前を呼びながらずっと背中をさすってくれました。

 

そうしているうちに僕は癒されたような気持ちになりました。
おそらくそれと同時に憑依霊も癒されたのだろうと思います。

 

それまで感じていた胸の苦しみが

スーっとましになったような気がします。

 

その後の僕の状態は酔いが醒めていくにつれ
落ち着いていきました。

 

時間とともに感情が高ぶって取り乱すような
憑依状態は消えていきました。

 

今から考えると、この時に父が僕の背中をさすってくれたことは

ある種のスピリチュアルヒーリング的な要素のあるものになっていたのではないかと思います。

 

父が子を思う「愛」を通路として何らかの霊的エネルギーが
僕(と憑依霊)に流入して魂が癒されたのではないか…。
と思っています。

 

(憑依について4に続きます。)

 

憑依について2

その頃の僕は挫折を経験して精神的に
落ち込んでいた時期でした。

 

定職にもつかず、実家でブラブラしながら悶々とした日々をすごしていました。


「解らない」ことから来る苦しみや
悲しみや怒り、そして何かを嘲笑して攻撃する
ような妄想が止まらないような状態でした。

 

妄想のしすぎで頭がパンパンになっていました。


一つの出来事にたくさんの解釈が入り交じって
感覚され、その出来事が何を意味するのかを考えては
また頭がパンパンになってどんどん訳が解らなくなるという
ような状態になることもありました。

 

例えば誰かが
「今日はいい天気ですね。」
と言ったとすると、こちらは
「アベコベの意味で解釈するのが正しい意味なんだ。」
と思うわけです。

 

つまり「今日はいい天気ですね。」の意味は
「いい天気→悪い天気」で
「今日は悪い天気ですね」が正しい意味なんだ。と思ったりして
言葉の裏にこちらに伝えたい暗号が隠されているのだ…。
と思ってその意味を探ろうとしていました。

 

今から考えると身近な出来事に暗号的な意味が隠されている、という感覚は背後霊からの霊的アプローチを何となく感じ取ってそうなったようにも思います。

 

しかし当時の僕は暗号的な意味を読みとろうとして複雑に考えて
結局訳が解らなくなり頭を抱えて悶絶するということもありました。

 

また今から考えると複数の憑依霊と同調一体化していた要素もあるのだろうと思います。

 

おそらくその中にはイタズラ霊もいて、
イタズラ霊の「おちょくり」のいいオモチャにされていた
ところもあるようにも思います。

 

その頃の僕は、時々「ウヒャヒャヒャヒャ」と何かを嘲笑することがありましたが、イタズラ霊がイタズラの成功に喜んでいた気分と同じ気分にこちらもなる、ということもあったように思います。

 イタズラ霊にとって僕はオモチャであると同時にイタズラ霊自身でもあったわけです。

 

憑依霊の感じている気分とこちらの感じている気分は
同じ気分になることがあって、両者は同じ気分を共有するところが
あるように思います。

 


突然笑うこともあれば、ものすごく胸が苦しくなることもありました。

「この世にこんな苦しみがあるのか」と思うほどの胸の苦しみです。

 

とにかく胸が苦しいのです。

 

肉体の胸が痛んでいるというより
何か解らないけど胸の奥にある何かが
凄まじい力で締め付けられるように苦しいのです。

 

その時の気分は巨大な暗黒の中で悶え苦しむような最悪の気分です。

 

床に這いつくばって、文字通り「のたうち回って悶え苦しむ」こともありました。

そのうち苦しみがやってくる時の対処法もあることに気付きました。

 

苦しみのあまり「のたうち回る」と余計に苦しくなるのです。

 

こういう場合は徒に抵抗せず、貝のように身を潜め、じっと苦しみが通りすぎるのを待つとよいと気付きました。

こうすることで苦しみは拡散することなく最小限で止めることが出来るように思います。

 

また大きな恐怖心でブルブル震えることもありました。

何か解らないけど「とにかく怖い」のです。

 

怖くて怖くてたまらず、何とかしなければと焦るのですが
何もする事が出来ず、自分のこれまでの人生を後悔しては「独り言」を言うのでした。

 

妄想が止まらないのと同時に「独り言」も止まらない状態でした。

 

一日中ぶっ通しで独り言を言い続けているような状態で
喉がガラガラになるまで独り言を言ってはクタクタになるのでした。


こんな日常を送っている時に、ついに憑依霊が出てくる(霊の存在を実感する)事件が起こったのでした。

 

(憑依について3に続きます)

憑依について1

僕が霊的な事に関心を持つきっかけとなったことについて語りたいと思います。


今から10年前になります。

 

僕の人生でもっともインパクトの大きかった
霊的な出来事を経験しました。

 

それは憑依という霊現象です。
憑依は自分の霊魂と地縛霊が一体化する現象です。

 

その当時の僕は霊的なことについては
むしろ否定的な思いを持っていました。

 

霊的なことは少なくとも

「自分には関係がないだろう」

と思っていました。

 

一般的によくあるタイプだったように思います。

 

しかし憑依を実際に経験し、霊現象というのは
本当にあるんだとその時初めて確信しました。

 

「これは幻覚とか錯覚ではない」と。
「霊というのはあるんだ」と。

その時初めて納得しました。

 

人間というのは実際に経験して初めて
確信し納得出来るのだと思います。

 


憑依によって現象が現れるパターンは色々あると思いますが
一番印象に残っているのは、
憑依霊が僕の身体をコントロールして
自分ではない他人(憑依霊)が
僕の身体を動かした時です。

 


その奇妙な感覚は
奇妙な奇妙な不思議な感覚です。

 

何とも言えない不思議な不思議な
何とも言えないぬるぬるとした感覚…。。。

 

のように感じたことを覚えています。

 


動いている肉体は自分の肉体ですが
その肉体を動かしている主体が
自分ではなく他人(憑依霊)だったのです。

 


僕は自分の肉体から外に放り出されたような感じで、
その身体をコントロールしているのが
他人(憑依霊)であることが解りました。

 

 

自分の肉体という着ぐるみの中に
入っているのが自分ではなく
他人だった、みたいな感覚です。

 

下半身には力は入っていなくて
憑依が強まった時に崩れ落ちるように
その場にしゃがみこみました。

 

そして匍匐前進するように手が動き出したのです。
何かを掘ろうとしているような動きで、
指を立てて床をかきむしるのでした。

 

その時の気分はただ「悲しみ」と「怒り」の感情だけの存在で、
凄まじい感情でした。
悲しみのために涙が止めどなく溢れました。

 

 

感情、感情、感情。

天地を貫くようなものすごい感情だけの存在です。

 その憑依霊は女性である、ということが直感的に解かりました。

 

僕がおかしいと思ったのは
悲しみや怒りには必ずその理由があるはずですが
その時はその理由が解らなかったのです。

 

もしかしたら憑依霊すらその理由を忘れてしまっている
のかも知れない。。。と今では思っています。

 

「悲しみ」と「怒り」に自分で自分を苦しめている

ような状態だったのかも知れません。

 

この時初めて自分の身に起こっていることが
霊現象であることが解りました。

 

この時初めて自分を悩ましていた心の苦しみ、
精神的に不安定になって妄想からくる苦しみ、
「解らない」ことから来る苦しみの原因が

 

「霊」的な要因によるものだったのだ

と直感的に解りました。

 

その時まで解らなかったのです。
「解らない」ことから来る苦しみの原因が。


話が前後しますが、僕が憑依霊に
身体をのっとられる事件が起こるまで
約一年半ほど精神的に落ち込み
気分が不安定な鬱状態
続いていました。

 

統合失調症の一歩手前のような状態だっと思います。

 

「解らない」ことから来る苦しみと言いますと。

 

自分の身の回りで何かが存在していて
何かシナリオのような計画書があり
何かがシナリオ通りに演出し、こっそりと僕を監視して
何かをしようとしている。という感覚に苦しんでいました。

 

その何かの存在を感じていましたが
それが気のせいなのか
それともその存在に何か意志があってのことなのか
何をしているのかが「解らない」のです。

 

妄想が果てしなくとまらない。。。ような状態です。

 

何か僕だけに秘密にしている
ドッキリカメラのようなことを
その存在がしている
のではないか?と。

 

「何かいるんやけど知らん?」

 

と人に聞いてみたりしました。

自分の周りの人間は
全てこのドッキリカメラの役者を演じている
グルなのだ。と思いこんだりしました。

 

外部から見るとかなり言動がおかしくなっている
状態だったと思います。

(憑依について2に続きます)