スピリチュアリズムでおはようSUN

シルバーバーチの志を学んでいます

大霊を学ぶ

大霊を習えるように

大霊を学べるように

 

大霊は材料を与えてくれている

大霊を学ぶための教材を与えてくれている

 

森羅万象がそれである

 

 

大霊そのものが教材である

 

この教材をヒントにして

 

大霊を学ぼう。。。

 

大霊は学ぶための材料は与えてくれるけれど

答え(真理)そのものは与えてくれない。

 

人は与えられた材料で試行錯誤しながら

自らの力で真理を見出していかなければならない

 

大霊をほんの少し理解すると

その分、少しだけ成長する

理解力が広がる

 

その広がった分だけ

大霊の世界も広がったように感じられるが。。。

と同時に、

即また学ぶべき教材が与えられる

 

 

言語の限界

高度に霊的なことを三次元的な地上用の言語で説明することは難しいと
シルバーバーチは語っています。

 

そもそも不完全なもの(地上用の言語)で完全なものを表現することは出来ないのだ。と。

 

では「大霊」という言語は、正しく「大霊」を表現できているのか?という疑問が残ります。

 

おそらく出来ていないのではないかと思われます。


神、大霊、創造主、ゴット、アラー、天之御中主神大日如来、等々

 

各地方、各宗教で色んな言い方がありますが要は同じものを指していると思います。

 

スピリチュアリズム的に言うと「大霊」です。
(ここでは「大霊」という言語を使おうと思います。)


「大霊」という言語による表現は不完全な地上用の言語によるものですから、
完全な「大霊」については実は表現できていないことになるのではないかと思います。


「大霊」という言語は「大霊」を正確に表現していない。。。


ということは「大霊」についていくら不完全な地上用の言語で語っても語ったことにはなっていないのではないか…。とも思います。

 

それくらいに「大霊」は計り知れないものなんだろうと思います。

 

「大霊(神)」の計り知れなさは想像を絶するものがあります。

 

とは言え「大霊」という言語を使用しないと

「大霊」を表現できないので説明の便宜上やむを得ず使用しているのが
「大霊」という言語になるのだろうと思います。

 


哲学者の言葉にこんなものがあります。(うろおぼえ)

 

「存在を語るためには言語が欠けている以上に、文法が欠けているのである」


ここで言う「存在」とは、高度に霊的なこと、「大霊」のことと解してもよいと思います。

 

「大霊」を語ることの構造的な不可能性を指摘した言葉だと思います。


「大霊」を語るための言語は地上には無いけれど、それ以上にそれを語る為の「文法」がそもそも無いというのは面白い指摘です。


「大霊」という言語は「大霊」を正確には言い当ててはおらず、
わずかにその一部をかすらせているのみであるというのが「大霊」という言語に対するイメージを抱いています。

 

それくらいに計り知れないのではないかと。

 

「大霊」という言語でなんとか言えているのは1%くらいで、
残りの99%は正しく「大霊」を言えていないのではないか。。。みたいな印象です。

 

もし仮に「大霊」を言えたとしても地上用の言語で表現できるのは地上人の理解力が及ぶ範囲内に限定されたものであって全体から見たら1%ほどかもしれない。。。

しかもその1%ですら地上人の理解力では実際にはほとんど理解出来ないのではないか…。とも思います。

 


「大霊」に対する興味は尽きませんが、その計り知れなさを思うとき、

「ああ。大霊よ。。。」と(語っても語ったことにはならないような地上の言語で)感嘆するほかはありません。

 

 

 

死は構造的に不可能

世の大半の人は肉体が「自分」の本源であり生命の本源と考えていると思います。

 

肉体が死んで無くなれば、それを本源としていた「意識」も消えて無くなると考えるわけです。


電気機器と電源の例えで言いますと。

 

テレビやエアコン、冷蔵庫などの電気機器は
電源から電気というエネルギーを得て動いています。

 

電気機器にはコードがあって差込プラグがコンセントにつながっています。

 

ほとんどの人が人間に意識があるのは「肉体」というコンセントに意識を働かせる脳からのプラグがつながっていて、そこ(肉体)からエネルギーを得ているから「意識」が成り立っているのだとイメージしていると思います。

 

もし肉体という電源を供給する本体が無くなると「意識」も消えるのだ。と考えるわけです。

「虚無」になってしまう。と。

 

僕も霊的なことに関心を持つ前までは同じように思っていました。

 

「人間、死んだら終わりだ」と。

 

世の大半の人は自分のこの肉体こそが「自分(意識)」の本源、

生命の本源であるという感覚的な思い込みがあるため、
肉体の死後も人の「意識」が存続し続けるという霊的事実を上手く飲み込めないのだと思います。

 

人間の肉体が死んでシルバーコードが切れ、霊体だけになった直後は混乱して自らの死を上手く理解出来ないと言います。

 


自らの「意識」は依然として存続して、おまけに身体(霊体)まであるので、まさか自分(の肉体)が死んでいるとは思いもよらないことのようです。

 


こうしたところにも「肉体こそ自分(意識)の本源」という物的感覚が影響しているように思います。

 

しかし肉体が無くなってもその人の「意識」は残ります。

 

つまり肉体というコンセントからプラグが抜けても「意識」は生き続けるのです。

 

何故かというと。。。

 

「肉体こそ自分(意識)の本源・生命の本源」という物的視野による考え方・感覚が間違っているからです。

「意識」は肉体からエネルギーを得て成り立っているのだ、、、
という思いこみが混乱の大きな原因のように思います。

 


何故人間は死んでも生き続けるのか?

 

つまり肉体が死んでも「意識(霊)」はそのままなのか?

 

そもそも「意識(霊)」はどこからエネルギーを得ているのものなのか?
を考えますと。。。

 

次のようにイメージしてみてはいかがでしょうか。


一言で言うと人間の意識(霊)は、
「大霊」から生命のエネルギーを得ているのです。

 

生命の本源は常に大霊です。

 

人間が何故肉体の死後も霊となって生き続けるのかというと、
そもそも「意識(霊)」のプラグは「大霊」というコンセントに直接つながっていて、そこからエネルギーを得て成り立っているからです。

 

しかもこのプラグとコンセントの関係は絶対に切れることがありません。

人間の自由意志でプラグを抜いてやろうと思っても抜けるものではありません。


例えば利己的な自殺をする者は、自分の意識の本源は肉体だと考えるわけです。

そして肉体を消してしまえば「意識」も消えるだろうと思って生命のプラグをコンセントから抜こうとします。


しかしそれは間違った思いこみで、生命のプラグは肉体ではなく大霊に直接つながっていて絶対に抜けない構造になっているのです。

 

自殺は不可能です。

また同様に他殺も不可能です。

構造的に不可能なのです。

もっと言うなら死別も不可能です。

 

自殺者や殺人者は「自殺も他殺もそもそも不可能である」という絶対的な事実が心底理解出来るまで、凄まじい苦しみの中で学ばねばならないと確信しています。

 

あるいは死別を悲しむ人は、「死別はそもそも不可能である」というその事実を心底理解出来るまで苦しみの中で学ばねばならないのだと思います。

 

「生命」はこれを滅ぼしてやろうと思っても滅ぼす事は出来ません。

なぜなら生命とは「大霊」だからです。

 

何故人は死なないのかというと「大霊」だからです。
「大霊」の生命を生きているからです。

 

シルバーバーチも言うように
「大霊とは生命であり、生命とは大霊です。」

 

我々は生命そのもの、生命のエネルギーそのものである大霊と
絶対に切れない絆でつながっていて、いわば「大霊の生命」を生きているわけです。

本当に生きているのは大霊の生命ただ一つです。

 

「私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出ることは出来ないのです。私たちもその一部を構成しているからです。どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれていることを忘れぬようにしましょう。」
シルバーバーチの霊訓1 P36)

 

我々の生命はそもそも最初から「永遠」であり「不滅」です。

大霊の無限の愛に包まれている我々は、それ以外のあり方がそもそも出来ないようになっているのです。

 

人間が死ぬなんてことはそもそも最初から構造的に不可能なこと、
想像することすら出来ない絶対にあり得ないことなのです。

 

凄いのは常に大霊

僕はあまりテレビは見ないんですが、NHKは何となく見ることもあります。

中でも動物の生態を紹介するような番組は好きです。

 

先日は深海の生物を紹介する番組を見ていたんですが。

いや、凄いものですな。

 

深海の生物は。

 

深海の生物は海底で人知れず生きてはるわけです。

 

指先くらいの面積に800キログラムの水圧がかかっているとか言ってましたけども。

完全に光が届かない深海一万メートルの過酷な世界だそうです。

 

あまりにも水圧が凄すぎて生物はほとんどいないのですが、
そんな世界でもエビやナマコなどの生物が生きているわけです。

 

あんなに深いところで生きているエビとかナマコとかは
何を考えて生きているのかなあと思いましてですね。


彼らはあんなにもの凄い水圧と暗黒の中で生きていこうと思わはったわけですわな。

 

「よっしゃ。わしらはここで生きていこやないか。住めば都やないか。」みたいなね。

 

どういうなりゆきでそうなったんやろ。と。

 

どえらいなりゆきですわな。

 

また深海の生物は生物発光といって深海で生きていくために
光を放っているそうです。

 

「なんと。人間みたいやな。」

「えやいもんやなあ」
とか言いながらですね。

 

深海の生物を研究してはる研究者も
深海の生物を見つけたときは

「凄い!凄い!」

と興奮しておられました。

 

確かに凄いと思います。

 

ただ常に忘れてならない視点があります。

「凄い凄い」と言うけれど。。。

 

凄いのは常に「大霊」です。

 

深海の生物を作ったのも大霊です。

いや、深海そのものを作ったのも大霊です。

 

深海の岩も水も砂も。。。

全部大霊が創造しているんです。

 

凄さの規模が違うわけです。

 

深海の生物を光らせたのも大霊です。

 

光の源は常に大霊です。

 

命の源は常に大霊です。

 

深海一万メートルの世界といえども
皆、大霊の命を生きているわけです。

 

皆、大霊の管理下にある大霊の命を生きる
大霊の子なわけです。

 

命は一つしかありません。

 

すなわち大霊の命ただ一つです。

 

我々は皆、大霊の命を生きているわけです。

 

この計り知れなさを何と形容できましょうか。


「ああ、大霊よ。。。」

というわけです。

 


人は色んな場面で「凄い」という言葉を使います。

 

「凄い絶景だ」とか「凄い発明だ」とか「凄い発見だ」とか。

 

ただ「凄い凄い」いうけれど本当に凄いのは常に大霊です。

 

何でも本当に凄いのは大霊なんです。

 

本当はぶっ通しで言い続けなければなりません。

「ああ。大霊よ。」
「ああ。大霊よ。」と。

 

本源は全部大霊ですから。


ところで、テレビを見ながらふと
深海一万メートルの海水も「塩からい」のかなあと思いました。

 

ちょっと舐めてみたいですわな。

 

海水浴でふとした拍子で海水を飲んでしまって

「から~。から~。」

と言うことはありますけども。

 

深海一万メートルの海水も本当にからいのか?を実際に確かめてみたいと思いました。

 

多分からいと思いますけども。何か凄いじゃないですか。
深海一万メートルの「からさ」なわけですから。

 

実際に舐めてみて

「ああ。大霊よ。深海一万メートルの海水にも
あなたは宿っておられます。ああ。大霊よ。から~。から~。」

 

みたいな感じで言ってみたいなあと思いました。

カメムシを助ける

先日仕事中に、ダムの管理所の食堂でカップラーメンを食べていた時のことです。
ふと下を見るとカメムシがひっくり返った状態で足をバタつかせているのを見ましてね。

 

「あら。」と思ったんですけども。

 

カメムシは嫌な臭いを出しますので苦手なんです。

 

「あらあら。」と思いながらも
特に気にも止めずにカップラーメンをすすっていますと
何となくカメムシの存在が気になり始めましてね。

 

よく見てみるとカメムシは一番長い後ろ足でひっくり返った身体を元に戻そうとして床に足を少しひっかけては回転し、ひっかけては回転しを繰り返しているんです。

 

床はタイル張りになっていて摩擦が無いもんですから、カメムシのひっくり返った状態の足が床を蹴ろうとしても滑ってなかなか上手く蹴れないみたいなんです。

 

それでカメムシはひっくり返った状態で足をバタたつかせて
右に回転したり左に回転したりしているんです。

クリンクリンしているわけです。

「どれくらいの長い時間このクリンクリンを繰り返しとんのかな?」と思いましてですね。

 

神は、大霊は、、カメムシがひっくり返っても元に戻れるようにその後ろ足と元に戻るための足の動かし方を与えたけれどツルツルのタイルの上でひっくり返った場合のことは想定していなかったのだろう。と思いましてね。

 

このままこのカメムシが虚しくクリンクリンを繰り返して
衰弱して過労死してしまうのは気の毒に思いましてね。

カメムシを触るのは嫌だったんですが

「このままカメムシを過労死させるわけにはいかない!ようし!まかせておけ!」
と思いましてですね。

「大霊や!大霊や!」
言いながらですね。

 

とは言え直接触るのは嫌なのでカップラーメンの蓋を細長く何度も折って棒状にして、カメムシのひっくり返ったお腹に当ててやりましてね。

 

カメムシがラーメンの蓋をガシっと足で掴みましたのでそのまま窓のところまで運んで窓の外にポイっと逃がしてあげました。

「ああ。めでたしめでたし。」でございます。

何となく良いことをした気分になりましてね。

 

「やっぱり大霊はすごいなあ…。」と感慨深かったんです。

カメムシの後ろ足一本にも神経があり、血液が流れ、細胞が密集し複雑な組織が「完璧」に機能しています。
こんなことは大霊にしかできない創造でして、
どうやって創ったのかな?と思うほど生命の神秘がスゴイわけです。

 

それと同様に床の上でクリンクリンしているカメムシに、僕が慈悲心を抱いてカップラーメンの蓋で助けてあげる一連の行動も実は大霊が創造した生命の機能の一つなのだろうと思ったわけです。

つまりカメムシの窮地を助けた僕の一連の行動は、イコール、カメムシの後ろ足の延長のような存在だったのではないか?。。。と。

 

あの時の僕は人間というよりも、カメムシの後ろ足の一部(大霊)的な存在だったのではないか?と思います。

大霊の目から見ると「カメムシ」も「カメムシを助ける為の一連の行動」も大霊が創造したものです。

 

大霊が創造したと言う意味では両者に違いはなく、
「同じ一つのもの」とみなすことが出来ます。

 

僕はカメムシを助ける一連の行動をとることによって
ひっくり返った身体を元に戻すための「カメムシの後ろ足」の一部になったんじゃないか。。。と。

 

大霊の道具になるとはこういうことを言うのではないかと。

 

最初はカメムシの後ろ足にはツルツルの床でひっくり返った場合には身体を元に戻す機能は無いと思いましたがそうではなかったわけです。

カメムシの後ろ足にはツルツルの床でもちゃんと元に戻れる機能が最初から備わっている。と考える事が出来ます。

それがまたスゴイなあと。

やっぱり「大霊や!大霊や!」ですわ。


ところで僕が食堂に入って足下のカメムシを見つけた時に
ひっくり返ったカメムシは足をバタつかせて自分で出来る限りの努力をしていたわけですが。
もしそれがなくカメムシが努力を怠って寝ていたら僕はカメムシの存在に気付かずそのままカメムシは死んでいたかもしれない。と思いましてね。


カメムシが足をバタつかせて出来る限りの努力をしていたからこそ
僕の目に止まり慈悲心を起こさせて一連の行動につながったのだと思います。

 

同様に霊界からの援助、大霊からの援助の霊力もこのようにして届けられるのだろうと思います。


まずは大霊に先天的に与えられた手持ちの材料・手持ちの力で精一杯努力してみてみると良いわけです。
例えその努力が間違っていたとしても、あるいは一見虚しい努力に見えたとしても、とにかく努力をしてみればいいのです。


そうすると例え手持ちの材料・力では及ばないことがあっても、大霊の霊力が働いて何らかのプラスアルファの助力が得られるのだろうと思います。

それを実感した出来事でした。


あの時のカメムシは今頃何をしているのかな?なんて思ったりします。
元気でいてくれるといいなあ。。。

 

上手な法話とは

お寺などでお坊さんが人々に仏教の話をすることを法話といいます。

 

落語の起源はお寺などでの人々への法話だったと聞いたことがありますが、
法話が上手なお坊さんの話の特徴は話そのものが「面白い」というところだと思います。

 

日常の身近な話題を用いながら、話がおもしろ可笑しく進行していきます。

当然聞いている方も話の面白さに引き込まれて、楽しみながらその法話を聞くことが出来ます。

 

法話が上手なお坊さんは、そんな面白い話を進めながら要所要所で仏法の教えのポイントを話の中で入れていきます。

 

そうすることでその法話を聞く人は、面白い話を聞きながら楽しみつつ仏教の勉強をすることが出来るわけです。

 

しかし、一方であまり法話が上手くないお坊さんの法話は、やたら難しい難解な用語を振り回したりして聞いていて眠くなるだけで心に少しも入ってくるものがありません。


つまり下手な法話というのは、その内容が無味乾燥で面白くないことを意味します。

 


法話というと仏教のイメージが強いですが、
要は霊的真理を伝える為の話と捉えることが出来ると思います。


霊的真理をどのように伝えるかは伝道に関する非常に重要な問題だと思います。

 

なるべく身近で日常的な具体例を使いながら
おもしろ可笑しい話の中に霊的真理のポイントを入れていくと良いと思います。

聞いている人も聞きやすし理解も促進されると思います。


間違っても難しい話の内容をそのまま難しく伝えてはいけないと思います。

 

法話が下手な人というのは難しい仏教の概念をそのまま難しく伝えてしまったりして、聞いている人は「難しい」という印象しか残らず、ただ眠くなるだけになるのだと思います。


難しい内容を難しく伝えるというのは、例えて言うと数学の公式をそのまま公式だけを伝えているということになると思います。


「公式Aは公式Aです」「公式Bは公式Bです」とただ羅列しているだけで、やたら上から目線で「理解できないのはあなた方がバカだからだ、勉強不足だからだ」と言わんばかりです。


難しい内容をそのまま難しく伝える人は、実は話が下手なのではなく
その難しい内容を本当は理解できていないことを意味する。。。と学んでいます。


話の内容が理解の難しい霊的な事柄であっても、それを解りやすく噛み砕いて、一般の人にも受け入れやすいように日常の身近な具体例を用いて伝える努力が必要なのだと思います。

 

それは本当にその霊的真理を理解出来ていないと出来ないことです。

 

どれだけ解りやすく伝えるかというのはその霊的真理をどれだけ理解出来ているかを知る指標となるように思います。

 

霊的なことを否定しているような唯物論的な人にも、心に何か引っかかる「種」を残せるような語り方を考える努力が大事なのだと思います。

 

例えばシルバーバーチの霊訓を伝えるにしても、いきなりシルバーバーチというのはややハードルが高いので、その核になる本質を保持したまま何か身近な事例を用いて上手く伝える方法を考えても良いように思います。


霊的真理を受け入れる「時期」というのは人によって様々であると思いますが、まいた種がいつか芽を出し活動を開始しやすいように種の状態を良くする努力をしつつ、心を込めて種まきする必要があると思います。

 

 

 

 

人生の大きな流れ

いつの頃からか、人生には大きな流れがあってその流れに添うようにして人生が展開していくように感じています。

 

この大きな流れは大きな霊的な力によって支配されていて
その流れに乗っている舟の船頭さんが自分です。
船頭さんといっても盲目の船頭さんです。

 

目の見えない船頭である自分が大きな人生の流れに流されながらも
舟の舵取りをしているようなイメージです。

 


この大きな「流れ」の存在に気が付いたのはいつだったか具体的にはよく思い出せないのですが、
いつの頃からか「流れ」の存在を感じながら、こちらとしても「流れに添うように動く」ことを意識するようになりました。


人生を川下りに例えると、川の源流近くの急な渓流では川の流れは激しいものです。

 

岩にぶつかったり滝に落ちたりしながら舟は流れに翻弄されることと思います。
そんな時、船頭は必死に舟をコントロールしようとしますが
自然の力には適わず流れに呑まれながら自分の無力さを思い知ります。

 

流れに呑まれ痛い思いをしながらも盲目の船頭は「流れ」とは何かを学びます。
そして流れに上手く添うことが舟を上手くコントロールするコツであることを学びます。

 

自分の力を頼み強引に自分の思うように舟をコントロールしようとしても流れに逆らっていては上手くいきません。
無駄な力を使って疲れるだけでなく「流れ」を読み切れずに大岩にぶつかって痛い目にあいます。


何度も痛い目にあいながら盲目の船頭は舟を自分の人力でコントロールすることを止めて、手を川の中に入れ全ての感覚を使って「流れ」を読み「流れ」に乗ることに集中するようになります。

 

「流れ」を読むと言っても必ず上手く読めるわけではありません。
その時々の船頭のレベルに相応した形で上手く読めることもあれば読み間違うこともあります。
ただ読み間違うといっても初めの頃のように大きく間違って重傷を負うということはないと思います。

 

また「流れ」に乗るといっても船頭は流されるがまま何もしないわけではありません。
何もしなければそれはそれで岩にぶつかったりして痛い目にあいます。

「流れ」の存在を知りながら何もしないということは、
それはそれで「流れ」に逆らっていることと同じことになると思います。


「流れ」が大きく右に曲がりつつある時はこちらも右に舵をきります。
またしばらくして「流れ」が大きく左に曲がりつつあればこちらも左に舵をとります。

その判断は「流れ」そのものの動きとほぼ同時であることが理想的だと思います。早すぎず遅すぎず「流れ」の動きにベストのタイミングでこちらも行動します。

 

こんな感じで船頭は「流れ」に添うように舟をコントロールすると上手く進めることを学ぶのです。

盲目の船頭が川に手を入れ全身の感覚を総動員して「流れ」の動きを読むという例えは、
自分の守護霊・背後霊が指し示す方向性を直観で読むことをイメージしました。
阿吽の呼吸で動くべき時に動き、「流れ」に添いながら「流れ」そのものとなる感じです。

 

背後霊の導きに全幅の信頼を寄せて身をゆだねつつ、
自らもそれら霊的存在の働きに協力協同して共に進んでいくわけです。


「流れ」の動きを感じてその動きに即応して舵を切るわけですが
その時点では「何故こちらに舵を切ったのかよく解らない」と一瞬不安に思うことはあるかもしれません。


その時点では何のことかよく解らなくても長い目でみると辻褄があって
「やっぱりあの時の判断は正しかったのだなあ」と思う時がくるのだろうと思います。

 

守護霊・背後霊のサポートがあると言っても船頭はあくまでも自分です。

日常の努力を怠らず、自分の感覚に自信を持って「流れ」を判断し、

自分の責任で舵を切ります。
そうすることで守護霊・背後霊との結束は強まり
人生の「流れ」はより進歩する方向へ大きく流れていくのだろうと思います。


こうして舟は大河へ到り自分の勤めを果たして
やがて大海へ帰っていくのだと思います。

 

問いの原点

人間は霊的存在であり肉体の死後も霊としてそのまま行き続けるという霊的真理によって「死」の問題は解決したかもしれませんが、
なお手つかずの問題が残っていることを忘れないようにしたいと思います。

 

それが「問いの原点」とも言うべき「存在」そのものに対する根本的な疑問です。

 

「霊界が存在しているにせよ、なぜその「存在」が存在しているのか?」
「神が存在するとしても、そもそもなぜそれが存在しているのか?」
「神が全ての存在を創造したとしても、何故なのか?」
「霊的成長が霊的存在の目的というが、そもそもなぜそのように創られているのか?」
「全存在は神そのものというが、そもそも神を創ったものはいるのか?」

 

こうした問題は霊的視野に立っても解らない問題のように思われます。

 

シルバーバーチも「原初のことは解らない」と言っていますので
例え高級霊になっても理解出来ない問題なのかも知れません。

 

またシルバーバーチは霊的なことを地上の(三次元用の)言語で説明することの困難さについて何度も訴えていますので、
高度に霊的な問題は地上に束縛されている地上人には理解することも

地上用の言語で表現することも出来ないのかも知れません。

 

もしかするとこうした「問いの原点」は
いかにも地上的な疑問なのであって、
迷妄の中にいる地上人が地上的な物的視野という迷妄をベースにして
作り出した「考えても仕方のない問題」なのかも知れません。


どんなに優秀な哲学者であれ

こうした「これ以上前に進めなくなる問い」の前ではその周辺であれやこれやとウロウロする他はありません。

 

答えが解らないという意味では「考えても仕方がない問題」であることは間違いないと思いますが、その対処法として忘れてしまっていいものでも無いようにも思います。


ではどうすれば「問いの原点」について解るようになるかを想像しますと、やはり霊的に成長する他ないのかなと思います。

 

霊的に成長し、霊格が上がればその分だけ理解力が増すというのが霊的真理で説かれているところです。


というわけで次のように神様から言われているようにイメージしています。

 

「”問いの原点”の問題について理解したいと思うなら、
霊的に成長しなさい。利他愛の実践に励みなさい。神性の発揮に努めなさい。。。
そしてもしあなたが高級霊になることが出来れば
今よりも少しは解るようになるだろう。。。」

 

低級霊に翻弄されるのも修行のうち

今から10年前、憑依が深刻化していた時期がありました。

低級霊のからかいやイタズラに翻弄されて右往左往していたように思います。

 

メディアが僕に語りかけて僕をおびき寄せようとしていると思いこんでTV局に手紙を書いたり、
文明の利器を使ってはいけないと思ってドアに鍵もかけず歩いて大阪から奈良まで帰ろうとしたり、

トイレに流した大小便が必ず返ってくると思いこんでわざわざ近くの公園やコンビニのトイレに用を足しにいったりして色々と支離滅裂な行動をとったものです。

 

しかし今から考えるとこうした経験も魂の成長のプロセスの一つとして
必要な経験だったように思います。

 

低級霊に翻弄されているという意識は翻弄されているその現場では無いわけですが、
言わば低級霊に翻弄されながらも低級霊に翻弄されるというのはどういうことなのかを学んでいたように思います。


また低級霊の関与するイタズラ・遊び相手といった低次元のことではありますが、霊的存在との交流を実体験を通じてその法則性を学んでいたと捉えることも出来ます。


その頃は霊的な存在を感じながらも何がどうなっているのか解らず暗中模索のような状態です。

 

例えると「水」を知らないような人が目隠しされた状態でいきなり海の真ん中へ放り込まれたようなものです。

一体何がどうなっているのか溺れそうになりながらも

頭を打っては修正し、また頭を打っては修正するという過程の中で
徐々に自分の置かれた状況を理解しはじめ、
手探りしながら右往左往する中で
そこに存在する何らかの内的(霊的)な「規則性」に見当をつけていくような感じです。


とても感覚的なことではありますが、僕にとっての霊的な存在との交わりとはどのようなものかを潜在意識と顕在意識の中間くらいの内的な感覚で身体で学んでいたように思います。

霊界からの影響をどのように感じ取るかの学びになっていたように思います。

 

それが結果的に霊的なことを捉える基礎となり
霊的な理解力や考えたりする力となっているようにも思います。


学んでいると言っても憑依が深刻化している当時は
当然「自分は今学んでいるんだ」という意識は無かったわけではありますが。。。

 

憑依や霊障で低級霊に翻弄されている状態も決して悪い事ばかりではなく、多くを学び、多くを自分の力にするチャンスとして肯定的に捉えることも出来るように思います。


実を言うと僕自身は今でもまだまだ低級霊的要素の多い人間で、
今も低級霊に翻弄されていると感じることもしばしばです。

 

ただ10年前のように憑依が深刻化する事はないと自分では思っていますが
理想としては自分の中の低級霊的要素を克服しながら、

低級霊とともに霊的成長していけたらいいなと思っています。

苦しんでいる霊


アランカルデックの「天国と地獄」には罪を犯した人間が
死後に自分の罪の大きさを見せつけられ
凄まじい苦しみに喘ぐ霊からの通信があります。

 

殺人などの罪を犯した霊は自分が殺人を犯す現場の光景を何度も見せられるといいます。

そして自分がやってしまった罪の大きさに自分で自分を攻めるそうです。

 

「天国と地獄」にはこんな声をあげて苦しむ霊が出てきます。

「ああ、苦しい。苦しい。なんという暗闇。なんという恐ろしさ。もう耐えられません。ああ、苦しい…。」

まさに地獄の苦しみと表現していいと思います。

 

ただ「地獄」といっても、宗教で説かれるような自分の外部に地獄という世界があるのではなく、

自分の内にある「良心(神的属性)」が作り出す摂理の作用としての
苦しみそのものの霊的状態があるようです。


どんな人にも「良心」があり、この「良心」によって罪(摂理背反)を犯したものは
その罪の大きさに応じたそれ相応の苦しみを引き受けなければならないのだと思います。


このように暗闇の中で苦しんでいる霊は本当に実在していると確信しています。

 

というのも僕も僅かながら、こうした苦しみに類似したような
霊的な「苦しみ」を経験したことがあるからです。

 

今から10年前に憑依が深刻化していた時に
こうした霊的な「苦しみ」を感じたことがあります。

 

アランカルデックを学んだときに自分かかつて感じた苦しみと
苦しんでいる霊が訴えているような苦しみとよく似ているので
「これはおそらく本当だろう」と確信しました。

 


憑依が深刻化していた時に僕が感じた苦しみは、
暗黒の中で閉じこめられ窒息するような最悪の気分の中で、胸の奥が物凄い力で締め付けれ、心の奥の何かが万力でギリギリとねじ切られるような苦しみです。

 

「心が痛い」という表現がありますが、肉体的な痛みではないものの
肉体的な痛みに類似するような心の奥の何かが痛んでいる最大級のもの…。
とイメージしていただけたらと思います。

 

この時感じた苦しみは本当に凄まじいもので今でも鮮明に覚えています。
苦しみのあまり床をかきむしり、のたうち回りました。

 

「この世にこんな苦しみがあるのか!」

というような苦しみでした。


今から考えると、この時感じていた苦しみは僕が感じていた苦しみであると同時に憑依霊が感じていた苦しみでもあるようにも思います。

 

肉体のある地上人は霊的感覚がその肉体の鈍重さの為に相当鈍くなっている状態なので、霊的なものを感覚することが困難であると学んでいます。

 

僕が感じた霊的な苦しみは僕に肉体があるおかげで相当鈍くなっていると思います。

 

ということはむき出しの霊的存在になっている
憑依霊が感じていた苦しみは僕が感じていた苦しみの何十倍何百倍になるのかも知れません。

 

例えて言うと僕は肉体があるおかげで
いわば防火服を着込んで火炎の中に入っているようなものに対し、
憑依霊はむき出しの素っ裸で火炎の中に入っているようなものだと思います。

 

想像するだけで本当に恐ろしい苦しみです。

しかしその苦しみも自分のカルマによるものなので仕方がないことです。

 


この時の経験から僕は霊界で苦しんでいる霊は本当に実在すると確信しています。
そしてその苦しみが想像を絶するものであることも。。。

 

「悪いことをすれば自分に返ってくる」とはまさにその通りだと思います。

どんなに極悪人でも、もし将来待ち受ける霊的な苦しみの凄まじさを知っていたら、
良心の声を抹殺するような罪作りな事はしないかもしれません。

 


無差別殺傷事件など何か悲惨な事件がある度に加害者の霊的な未来について重い気持ちになります。



ちょうど一年前に障害者施設に押し入り、無差別的にたくさんの障害者を殺傷した事件がありました。

本当に恐ろしい事件です。

 

こうした事件では被害者もさることながら、事件の加害者にも祈りが必要ではないかと思います。

 

世の大半の人は霊的な実相に慣れていないので
加害者に対する復讐心ばかりを駆り立ててしまい

加害者への「死刑」を望むのかも知れません。

 

しかし霊的には、これから大変なのはむしろ加害者の方のように思います。

そのカルマの巨大さに想像するだけで気が重くなります。

 

もちろん霊的な真相が実際はどうなっているのかは解りません。

 すべてを大霊にゆだね深く祈りたいと思います。

 

大霊への祈りの中で、祈りは被害者のみならず、加害者の為にも祈ることも忘れてはいけないように思います。

 

「罰は罪それ自体の中に内在している」とする霊的真理があります

おそらく本当だろうと確信します。

 

霊的な世界で遭遇する苦しみは想像を絶するものだと思います。

神の摂理は完全です。

加害者は間違いなく「神の存在」とその摂理の完全さを
完膚無きまでに思い知らされることと確信します。