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スピリチュアリズムでおはようSUN

シルバーバーチの志を学んでいます

花にはニコニコ返しで

霊的成長

花はかわいいですね。
花を見ると自然に笑顔になっています。

 

花を見ると花に笑顔のお返しをするという。
僕はこれを
「ニコニコ返し」
と愛情を持って呼んでいます。

 

花は色々です。
桜のような木に咲く花もあれば
チューリップのように庭に咲く花もあります。

 

僕が好きなのは野や山に自然に咲いている花です。
人知れず控えめに咲いている小さな花の愛らしさ。

 

色とりどりの可愛い花に
命を創造した大霊の愛を感じます。

 

花という大霊の愛に
感謝の笑顔を送ることで
花にお礼をします。

 

花を見つけると
「あっ。花や。ようし!ニコニコパワーを受け取ってな。」
ニコニコニコニコ。パワワァ~。
みたいな。

 

 

新しい命が芽を出し、花が咲く
春の山のことを
「山笑う」
と表現しますけども、花や新緑の生命エネルギー
は笑っているようにも感じられます。

 

 

花が持つ笑顔の生命エネルギーに応えるべく、
大霊の愛に応えるべく
花を見たらニコニコ返しでルリリララ♪。

何となくよいことをしたような気分になります。

 

笑顔は花であり、花は笑顔である。

 

笑顔には霊的なエネルギーが宿っている
と思います。

 

花を見たらピュアな心でニコニコ返し。

 

笑顔を送られた花も、その愛を受け取り
霊的に成長するようにも思います。

 

童子のような純粋な心で花に笑顔を送る。
たったそれだけで花も霊的成長するし
こちらも霊的成長すると思います。

 

霊的成長というと何となく

難しそうなイメージがあるかも知れません。


ですが、あまり難しいことを考えなくとも
ただひたすら花に笑顔を送るだけでも
立派な霊的成長になると思うんです。

 

何か辛いことがあって、
落ち込んだり苦しんでいる人も
簡単に出来ると思います。

 

シルバーバーチも言うように
「自分を役立てることこそ唯一の宗教」
です。

 

花の霊的成長の為に自分を役立てることで

自分も霊的に成長する。

 

そんな愛の交流を
大霊はお喜びになってくれると思います。

 

修行とは何のためにあるのか?

霊的学び

滝に行ってきました。

僕の中では滝行は個人的な娯楽の一種で、
趣味的なものです。

 

スピリチュアリズムでは極端な肉体行は
オススメは出来ないものとして否定されています。

 

なぜその「行」をやるのかという動機にもよりますが、
「行」をすることによって低俗なエゴ性を強めてしまいかねない
危険性があるからです。

 

霊的真理の知識がなく

物質的価値観の束縛が強い「この世」的な思いで

修行をするのは確かにあまりよくないと僕も思います。 

 

「行」をする行者の動機に邪なところがあると、
低級霊系の霊的世界に通じてしまい
肝心の霊的成長に支障をきたす恐れがあります。

 

霊的真理の知識はスピリチュアリズム普及会さんのサイトで学ぶことが出来ます。

スピリチュアリズムとシルバーバーチの霊訓の総合サイト〜スピリチュアリズム普及会

 

僕としても修行に伴う危険性は重々承知しているつもりなのですが。。。

 

ただ何となく縁のようなものも感じていまして、
滝から学ぶこともあると思いますので
趣味としてボチボチと続けていきたいと思っています。

 

「滝から学ぶ」というのは最近感じるようになったことです。

 

滝行をやり始めた時は

山、川、草木、花、風、鳥、等々の自然から

「学ぶ」「学ばさせていただく」

という意識はありませんでした。

 

まだまだ未熟な僕が言うのも恥ずかしいのですが、

「行」を続けていく中で

自分の魂が耕されて

知らず知らずの内に霊的な成熟があったのかも知れません。

 

滝に入ってすぐの間は冷たさと寒さと衝撃で心がざわつく時間があります。

すごく呼吸が苦しいです。

覚悟を決めて気合を入れて滝に入っても

心のざわつきはしばらく続きます。

 

しかし不思議なもので、ある一定期間を過ぎると身体が慣れてきて、

冷たさや寒さや衝撃からくる肉体の「苦しさ・辛さ」のようなものが

ましになってきます。

峠を越えて何となく落ち着いてくるような感じです。

 

心のざわつきが終わり、魂が鎮まってくるような感じです。

腹が据わってくる、といいますか。。。

 

これをスピリチュアリズム的に説明すると

滝に入った当初はまだ

肉体的なパーセンテージが大きい感覚があるため

苦しみや心のざわつきを感じるのかもしれません。

 

それが峠を越えるように徐々に肉体的感覚から

霊的感覚に移行していくことで、当初感じていた

肉体の苦しさが緩和されてくるのではないかと思います。

 

 

肉体的パーセンテージ大(肉主霊従)→肉体的苦しみ感・大

霊的パーセンテージ大(霊主肉従)→肉体的苦しみ感・小

 

こんなイメージでまとめることが出来ると思います。

 

 

死にいたる過程(病苦など)においては肉体的な苦しみを感じる場合もあると思います。

しかし肉体と霊体のシルバーコードが切れる実際の「死」に際しては苦しみは感じないと学んでいます。

 

人が死んでいく過程にも同じことが言えるのかも知れません。

 

肉体的パーセンテージ大の時は苦しみを感じますが、

肉体の弱体化とともに

霊的パーセンテージが大になると苦しみを感じない。ということだと思います。

 

修行には死の疑似体験を学ぶという要素もあるのかも知れません。

 

 

僕は滝から出るとすぐ、その日の最後の締めに川の水で水垢離を行います。

実はこの水垢離が滝行よりも冷たくて辛いのです。

そしてその川の水で顔を30回ほど洗います。

 

 

寒さと冷たさで身体を動かすのが苦しく、動きがスローモーションになります。

何かを考える余力は最早ありません。

 

その日の僕は滝に向かって

「ありがとうございましたー!」

と礼をしながら絶叫していました。

 

なぜかは解かりませんが、本当に行場がありがたいと思ったのです。

 

「行」が終わってからしばらくたつと

心にジワジワと湧き出るように浮かんできた考えがあります。

 

それは

「愛こそ本当の修行」

というワンフレーズです。

 

ああ。まさその通りだ。と思いました。

 

本当の修行は

「愛」

なのです。

 

滝行などの宗教的な修行は本当の修行ではなく

本当の修行を行う前の準備運動・擬似的な練習のようなものにすぎない。

と思います。

 

修験道には

「山の行より里の行」

 という言葉があります。

 人生という現場こそが本当の行場なんだと思います。

 

滝などの行場での修行は

人生の現場という行場の一部に過ぎません。

 

 

滝などの行場での修行は擬似的な修行。

人生の現場という行場での修行こそ本当の修行。

 

擬似的な修行を行う場合はこうした謙虚さを

忘れてはいけないと思います。

 

 

ただ擬似的な修行の醍醐味は、

人生において極めて重要なことではあるけれど

人生という現場では忘れがちな

誰もが気にもかけないごくごく当たり前のことを

修行を通じて、

むき出しになった魂を通じて

魂のレベルで、

魂が絶叫するように

骨の髄から確信納得する。

というところだと思います。

 日常を見る目が変わるキッカケになると思います。

 

 

知識として頭で学ぶのと、

叩きのめされて叩きのめされて

魂のレベルで骨の髄から学ぶのとでは違いがあると思います

その解かり方。納得得心の仕方。が根本的に違います。

 

 

愛こそ本当の修行

 

それはあまりにも当たり前のことで

まさに真実であると思います。

 

 

霊的な存在から直接手渡しするように

何かを教えてもらう。

何かを学ぶ。

 

その内容はごくごく当たり前のことで

「そんなことぐらい、わざわざ修行しなくても知ってるよ」

と一笑に付される様な

あまりにも単純なことかも知れません。

 

しかし

まさにだからこそ修行はあるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神(大霊)の道具はいたるところに

霊的気づき

大きめの天然温泉に行きましてね。
関西最大店舗ということで
いつか行ってみたいと思っていたんです。

 

夜の露天風呂に入っていた時の事です。

 

お湯に入っているときは気持ちのいいもんですね。
適度な温度があればこんなに水は心地いいものかと思いました。

 

これが水だったら冷たい冷たい。

 

こんなに心地よくはないでしょうな。
まさに苦行になります。

同じ水なのにどういうことかと思いました。


最近、滝に行ってませんから。
冬の滝行は厳しいです。

しかし温泉のお湯は気持ちよくて
ありがたいものです。

 

湯船にお湯がバーっと落ちてくるところがあるんですけども。
そこで背中にお湯を当てまして。
プチ滝行気分してたんです。

 

そこで霊的な考えが浮かんだんです。

「神の道具ってこれかなあ」

みたいなね。

 

その場での神の道具は「お湯」だと思ったんです。

露天風呂のお湯に入りながら
「このお湯が今まさに神の道具」って思いましてですね。

 

自然はみな神(大霊)が作った創造物です。

 

気持ちよく風呂に入り「お湯」に当たっていますけども。

「お湯」もまた神の創造物だなあと。

 

神の創造物といえば、太陽も月も、花や草木も、かわや海も、
霊も霊界も、みな神が作った創造物です。

 

そのすべてに神の御心
その計画の実現へ向けての役割があるわけです。

 

どんなものでも神の創造物は
一つ一つがみな全て神の道具なんだろうな
と思ったわけです。

 

 

お風呂に入っている人は皆気持ちよさそうです。
勿論僕も人間の一人としていい気分でお湯に
つかっているんですけども。

 

「お湯さん。たくさんの人々の役に立ってますなあ」
と敬礼敬礼ですわ。

 

「こんなところに神の道具の先輩がいはった」
「これは先輩の「神の道具」に学ばせてもらおう」
と思いましてですね。

 

「お湯のバイブレーション」に波長を合わせるべく
軽くその場で瞑想いたしました。

自分を「お湯さん」と同一化するような感じで。

 

お湯が自分で、自分がお湯で。

 

「神よ、このお湯さんのように
神のお手伝いをする為には
どのようにあるべきか教えてください」

と最初に祈りましてね。

 

 

こんな感じで自然と同一化する瞑想をすると
霊的にすごく良いと思いました。

 

美しい自然、神の愛あふれる「自然」は無数にありますから。
無数に神の道具が我々の「目の前」にあるわけです。

 

これらの諸先輩の方々に神の道具はいかにあるべきかを
学ばせていただくことは日常の生活でも
意識的でありさえすればいつでも可能だろうと思います。

 

滝行にもそういう要素はあるのだろうと思います。
水から「神の道具」であるためにはどうあるべきかを学ぶという。。。


自分が水で、水が自分で。

 

人間だけでなく生命を育成させる為には
水は不可欠なものです。

水が受け持つ神から与えられた仕事の
巨大さは人間の想像をはるかに越えるものなんだろうなあ。。
と思ったりしました。

 

そんな感じで露天風呂で瞑想してたんですが、
すごく充実した気分になりましてですね。


その時ですが。

ふと
「上を…」と
何かに語りかけられたような感覚がしましてね。

 

「えっ?上?」と

上を見ると月が出ていたんです。

はっとするような綺麗な三日月でした。

 

「ああ。太古の昔より変わらぬ月の美しさであることよ。」
みたいな感動がありました。

 

綺麗な月でさらに心が洗われたような
ありがたい気持ちになりました。

 

おそらくですが。
「上を…」
と語りかけてくれたのは
霊的な存在なんだと思います。

 

自分の悪口も言ってはならない

霊的学び

「私にとって神々は永遠不変にして全知全能の摂理としての宇宙の大霊です。私はその摂理にいかなる不完全さも欠陥も不備も見つけたことがありません。原因と結果の連鎖関係が完璧です。この複雑を極めた宇宙の生命活動のあらゆる側面において完璧な配慮が行きわたっております。例えば極大から極微までの無数の形と色と組織をもつ生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けていただけば、神の法則の全構図と全組織がいかに包括的かつ完全であるかを認識されるはずです。」(シルバーバーチの霊訓3 潮文社)

 

僕にも僅かながらインスピレーションによる霊的交信と思われる経験があります。

 

今から4年程前になります。そのときはまだスピリチュアリズムに導かれていない時で、霊的真理の知識もほとんど無い状況でした。

 

地元の寺に参拝した帰り道のことでした。

なんとなく天空から話しかけられたような気がして回りを見渡したのを覚えています。

すごく不思議な感覚でした。

心にポトリと落とされたように届けられた「意味内容」を感じました。

 

それは

「人の悪口を言ってはならぬ」

というものでした。

メッセージたというか、何となく感じた内容はただそれだけです。

本当にただそれだけでした。

 

「人の悪口なんて言ってないけどなあ…」

と思ったのを覚えています。

 

当時は人の悪口に関して特に意識していたわけではありません。

でも特に人の悪口を好んで言っているわけでもなく、

むしろ自分が人から悪く言われても

こちらからは相手の悪口を言わないように意識していたほどです。

 

なので「人の悪口は言っていないけどなあ…」と思ったのです。

 

しかしそれからしばらくして思うようになりました。

当時は確かに人前では人の悪口は言わないようにしていましたが

ひとり言では人の悪口を言っていたのでした。

 

独り言なら他者に迷惑はかからないだろうという思いがあり、言ってもいいのではないかとつい思ってしまいます。

うっ積した思いを独り言で悪口を言うことによってストレスを発散させていたのです。

 

しかし悪口というものはそれを口にするだけで

霊的に良くないことなのだと思いました。

 

「これはいかん。」と思いました。

赤面赤面です。

 

例えひとり言であっても人の悪口を言うことは良くないことなのだと思います。

 

それからしばらくしてまた気づいたことがあります。

それは自分の悪口も言ってはならない、ということです。

 

失敗したり上手くいかないことがあると

「ああ、自分はダメだなあ。自分はダメ人間だ。なんて情けない奴なんだ。」

みたいな感じで落ち込んでしまうことがありますが、これも霊的に良くないのだと思うようになりました。

 

自分を悪く言うことは、謙虚さや反省の表現になる部分もあるので

社交辞令としては良い面もあるのかもしれません。

 

しかし自分の悪口を言いすぎることは霊的に良くないことだと思います。

例え独り言であっても自分(人)の悪口を言ってはならない。という。

 

「人の悪口を言ってはならない」の「人」には自分も含まれます。 

 

自分という存在はその身体も個性も神から頂いたものです。

 

いわば自分という存在は神からレンタルしたレンタル品です。

いつかは神にお返ししなければならない借り物なんだと思います。

その借り物に対して、これは粗悪品だとか劣っているとかダメだとか悪口をいうことは

それを与えた神に対し文句をつけていることになるように思います。

 

神が与えたもの、神からレンタルしたものは人それぞれ違います。

人それぞれの霊的背景にふさわしいものが与えられていると思います。

 

神は完璧です。間違うということがありません。

 

自分という存在のその本当の所有者は自分ではなく

神(大霊)なのだと思います。

 

そのことを忘れ自分の悪口を言うことは

摂理違反になるのだと思います。

 

摂理違反の結果どうなるかというと

「苦しみ」がやってくる。というわけです。

 

以上が僕が感得したインスピレーションとそこから学んで考えたことです。

 

「人の悪口を言ってはならない」

という単純な内容ですが

霊的な存在から直接頂いたという意味では

大変ありがたい教訓として生涯大事にしていきたいと思っています。

 

 

地球にも寿命がある

霊的成長

「あなた方が今生きているのは霊だからこそです。
墓場を越えて生き続けるのも霊だからこそです。
霊であればこそどこまでも永遠に生き続けるのです。」

シルバーバーチの教え上 p153 スピリチュアリズム普及会)

 

地球は永遠に存在し続けるわけではなく、いずれ消滅することになると思います。

肉体に寿命があるように、地球も太陽もいずれは

消滅する運命にあるように思います。

 

地上人類もいずれは消滅することでしょう。

 

我々が生きているその現場であるこの地球が消滅する。

何となく虚しく恐ろしく感じるかも知れません。

 物の目で見るとそうなるかもしれません。

でも霊の目で見ると。。。

 

地球という物質は例えるなら材料にすぎないように思います。

何のための材料かというと。

霊的成長、霊性進化のための材料です。

 

地球という材料を使用して

霊的成長という製品を作る。

 

製品を作るためには材料に加えて

「道具」が必要です。

人間という道具が。

 

「霊こそ実在であるという真理は永久に不変です。これが全ての謎を解き、全てをあるべき位置にあらしめるカギです。」(シルバーバーチの霊訓1 p188 潮文社)

 

シルバーバーチが言うように

霊こそが主人であり、物質は従僕にすぎません。

霊にこそ価値があります。

霊こそ実在なのです。

 

地球という物質が消滅しても、実は何も消滅していないのです。

なぜなら霊は消滅しないからです。

地球の全ての記憶は霊に帰属するのだと思います。

 

地球という物質は、霊的成長という製品を作るための

単なる材料にすぎないのだと思います。