スピリチュアリズムでおはようSUN

「大霊一本!大霊一筋!」を信条にしています。

自然霊について2 自然霊から学んだこと

低級なものとは言え、自然霊がいると知った時は、すごく驚きました。
そして霊的世界に対する興味がすごく大きくなりました。

 

「一体あの動物のような姿をした霊は何なんだろう?」

「何故ああいうものが存在しているのだろう?」

「あれら自然霊は一体何をして生活しているのだろう?」


僕は自然霊について興味を持ち、
スピリチュアル系の文献を色々と読みあさりました。

 


そうした過程の中で「シルバーバーチの霊訓」などのスピリチュアリズムの良書にも出会うことになりました。


元々霊的な世界に興味を持ち、いてもたっても居られず修行を始めたわけですが、この時をきっかけにさらに霊的な世界に対する興味が倍増しました。

 

約1年かけての修行を最後まで続けられたのも、「自然霊」に対する興味の大きさによるところもあったと思います。


今から考えると「自然霊」という霊的なサンプルを見せて霊的な世界に興味を持たせ、ついには「大霊」に導こうとする霊界の計画のようなものがあったのではないか??という気がしています。

 

そのために背後霊が働いてくれたのではないか?と。


19~20世紀にスピリチュアリズムが始まった頃、テーブルや壁を叩いて音を出したり物を浮かせたりした物理現象で霊界が人々に霊的世界の興味を喚起したことがありました。


いわばスピリチュアリズムの「物理現象時代」です。


同じように始めはびっくりするような演出をして霊界への興味を持たせてから、その後スピリチュアリズムの思想や哲学、そして「大霊」に導いていくというのは
個人のレベルでも同じなのかも知れないと思っています。

 


「自然霊」に興味を持ち、色々と調べたりしましたが結局のところ、こうした低級な「自然霊」は一体何をしているのか、何の為に存在しているかは具体的には解りませんでした。


いずれにしても創造主である「大霊」によって何らかの目的があって創造されたことは確かであり、それぞれその役割を果たして存在しているのだと思うようになりました。


それは虫一匹といえども「大霊」の生命を宿す存在であるのと同じことだと思います。


普段は意識することもなく誰も気にもかけませんが、
例えば草むらの石の裏をめくればミミズやダンゴ虫、ハサミ虫や蟻などの小さな虫がたくさんいることと思います。


これらの小さな虫たちは何の為に存在し、何をしているのかは具体的には解りませんが、彼らは自然の一部であり自然の大きな動きの中で何らかの役割を果たしながら「大霊」の一部として機能している貴重な歯車の一つ一つなのだと思います。


虫一匹といえども「大霊」の生命を生きているのであって、どんな小さな微生物といえども「大霊」の管理から外れた存在はありません。


「自然霊」も同じなのだと思います。

「自然霊」もまた大霊の管理下にあります。

「自然霊」もまた大霊の命を生きている貴重な存在です。


自然霊は「大霊」の生命を生きながら大霊から与えられた何らかの役割を(言わば)彼らが住む高低それぞれの霊的世界において果たしているのだと思います。


高級な自然霊には高級な自然霊の役割があり、低級な自然霊には低級な自然霊の役割があるのだろうと思います。


それがどのような役割を果たしているのか?
その具体的な内容は解りませんが「大霊」は意味の無い存在を作らないと思います。

 


例えば草むらの石の裏の蟻やダンゴ虫などの小さな虫の世界は、誰にもほとんど意識されない世界です。

 

言わば「目に付かない世界」です。


「目に付かない世界」と「目に見えない世界」はよく似ていると思います。

 


僕は自然霊の存在を知った時は大変驚きましたし、とても「不思議」に思いました。

 


しかし「目に見えない世界」のことを不思議がるのと同じ「霊的な不思議がり方」で地上の身近な「目に付かない世界」を見なければならない。。。と思うようになりました。


地上の一匹の虫と、
霊的世界の虫の自然霊とは
「大霊」が創造したという意味では同じです。


どちらも「大霊」が創造した「凄さ・偉大さ・トテツもなさ」を内在させているのだと思います。


普段は「目に付かない」ような一匹の虫からも「トテツもない」大霊の計り知れなさを見出すことが出来るのだと思います。


「目に付かない世界」とは実は草むらの石の裏だけではありません。


我々の日常の生活の全て、森羅万象の全てがありふれた「当たり前」というベールに覆われた「目に付かない世界」になっているように思います。


霊的な「目に見えない世界」は、
見えているけれど「目に付かない世界」に意識を向けさせるキッカケにならなければならないのだと思います。

 

霊的な現象にはそういう役割もあるのではないか、と。


「自然霊」から学んだことは、日常ありふれた目の前の「目に付かない」些細な現実から「目に見えない大霊」を見出すことだったのだと思います。

 

 

 

自然霊について1 自然霊と妖怪

今から3年程前に僕は修行場が整備されたあるお寺で修行を始めました。

 

修行を始めてから1~2ヶ月すぎた頃、
「自然霊」というの霊的存在の存在を知りました。


僕は憑依などの実体験から人間が亡くなっても霊的な存在となって実在していることは知っていましたが、

人間以外の霊的存在が本当に存在しているとは実際にはその時まで考えることもなかったので大変驚きました。

 

霊的存在というよりも「幽体的存在」と言った方がいいかもしれません。

 


どのように認められるかというとその場にある「湿度」をある種のスクリーンとして浮かび上がってその幽体の輪郭が認められる、といった感じです。

(ちなみに今はわかりません)


自然霊とは何かというと、よくある定義としては
「地上の世界に物質として生を受けたことのない霊的な存在」
と説明されています。


自然霊を代表するイメージとしては
龍、稲荷(狐)、天狗、ヘビ、狸、などです。

 

外国では人間以外の霊という意味を込めて
「non human spirit」とか「nature spirit」
などと呼ばれているようです。


自然霊をどう定義するかという問題もすごく大きなテーマのように思いますが、ここではざっくりと「人間以外の動物のような姿をした霊的存在」としてみたいと思います。


僕が最初にその存在を確信したのは
「ヘビのような姿をした自然霊」でした。


「ヘビのような」と表現したのは地上にいる爬虫類の(動物の)ヘビとはまた別種の異なる生命体のように僕には認められたからです。


あるいは「ヘビのようなウナギのような長い虫のような」幽体的存在と表現してもいいかも知れません。


「ヘビの自然霊」という表現は地上サイドの言い方であって
地上の動物のヘビと同一視していいかどうかは解らないと思いました。


地上サイドから見たらその姿は確かに「ヘビに似ている」ので
もし何かのタイミングでその姿を知覚した人は地上の動物のヘビしか
それを形容する言葉がなく「ヘビの霊」と表現するのかも知れません。


しかし動物のヘビとは比較にならないくらい巨大なものもいて
種類・系統?が違うようにも思われました。


というのは動物のヘビにはない特徴である「垂れた耳」と「ナマズやドジョウのようなヒゲ」があるものもいる(?)ように僕には認められたからです。


ヘビのような姿をした自然霊は空にもいて、空中を漂うように存在しているように僕には認めれました。

 

おそらくそれが「龍」と呼ばれている自然霊ではないかと思います。

 

またその他には、お稲荷さんと呼ばれているような「狐(犬?)」のような姿をした霊的存在や、

昆虫の「蜘蛛」のような姿をした霊的存在の実在を確信しました。


その当時はまだ自然霊という言い方があることも知りませんでしたが
龍が実在していることに大変興奮しました。


一般的には龍は想像上の生物とされていますが
龍とは霊的な生命体であり霊的に実在していると確信しています。


ただ僕には龍というより空に漂う「長い大きな虫」のように認められました。


虫に自意識があるようには思えないのと同じで
「長い大きな虫(龍?)」のような霊的生命体にも
自意識があるようには思えないものがほとんどのように思われました。

 

一説には自然霊も人霊と同様に高級霊もいれば低級霊もいると言います。


想像すると自意識がある進化した龍もいれば、
進化していない自意識の無い龍もいるのかも知れません。


何らかの高度に霊的な働きをする進化した自然霊のことを神のお使いという意味で、
日本では「眷属神」と呼び、
西洋では「天使」あるいは「妖精」と呼ぶのではないかと考えています。


僕が認識した(今から思うと背後霊に見せてもらった)
自然霊はグロテスクな姿をした幽体的なものばかりで
おそらく低級な地上の波動に近い存在ばかりのように思います。


虫の「蜘蛛」のような姿をした自然霊の存在も確信していますが
昆虫と同様に自意識があるようには思えませんでした。


蜘蛛といっても大きさは大小様々で大きいものは家より大きく
妖怪の「牛鬼」を思わせるものもいると確信しています。

 

まさに「魑魅魍魎」の世界です。


いわゆる「妖怪」というのはこうした低級な自然霊のことを言っているのではないかと思います。


こんな話を聞いたことがあります。

 

ある麻薬中毒者が意識朦朧の状態である幻覚に悩まされていたそうです。

 

その幻覚というのは部屋中に気持ちの悪い虫がウジャウジャと這いずり回ったり、気持ちの悪い虫が自分の身体をよじ登ろうとしたり、窓を開けるとあたり一面がそんな気持ちの悪い虫で一杯になっていたといいいます。

 

この時にその人が見ていた「気持ちの悪い虫」というのは
おそらく低級な自然霊のことではないか、、、と思います。


この麻薬中毒者はおそらく何日も食べない寝ないという生活をしていて
体力が衰退し霊視が効くようになったのではないかと思います。


霊的世界というのは言わば同じところに違う状態で
様々な波動の霊的世界が同時に存在していると言いますが
それを実感した出来事でした。

 


こうした低級な自然霊の住む世界というのは地上の物質の波動に近いのだろうと思います。

 

 

究極の神秘

地上においても花や小鳥や空や山などの自然は神秘的で素晴らしい。

 

なんでこのようなものがあるのだろう??

 

不思議で不思議で仕方がない。。。

 


さらにもまして。

 

霊界における花や小鳥や空や山などの自然は

 

想像を絶するほどに美しくもっともっと神秘的で素晴らしいという。。。

 


ただ。


地上においても

 

また霊界においても

 

それらがいかに素晴らしく、

 

途方もなく美しく、

 

不思議で神秘的であったとしても。

 


その無数のそれぞれがどのようなあり方をしていたとしても。

 

それらはあくまでも外側から見た現象にすぎない。


凄いことは凄いけれど、

 

本当の不思議さ、

 

神秘さは、

 

実はそこにはない。

 


本当の不思議は。

 

本当の神秘は。

 


それらの現象の本源である

 


「大霊」の存在。

そのことそれ自体。

 

 

「大霊」がまさに「ある」こと。

そのことそれ自体。

 


「大霊」が存在している。

そのことそれ自体。

その「絶対的な事実」こそが真に最大の不思議であり。。。

 


計り知れない究極の神秘なのだ。。。

 

 

 

太陽の向こう側に大霊を思う

時々、太陽を見ながら思うことがあります。

 

「なんという凄いエネルギーだろう」と。

 

「何億年も前から燃え続けているあの凄まじいエネルギーはどこからきているのか?」と思います。

 

太陽の光を電灯の光として見立てると
何億年前もからずっと電気つけっぱなしですわな。

 

これまでもそしてこれからもずっと電気つけっぱなしって
どういう状態やねん。と言いたくなりますが
全くもって想像を絶する程にとんでもないことでございます。

 

電気代もものすごい値段になるはずです。

 

地上の富を結集して人類が何千年とどんなに頑張って働いても、
たった一日の太陽の光の電気代も払えないのではないでしょうか?


では太陽のあの凄まじいエネルギーはどこからやってくるのか。と考えますと。

 

仮に太陽に差し込みプラグがあって、どこかのコンセントにささっていて、そこから電源をもらって光っているとしたら。。。

 

どのコンセントにプラグはささっているのでしょうか。

 

電源はどこからもらっているのでしょうか。

 

答えはカンタン。

 

「大霊」です。

 


太陽のプラグは大霊というコンセントにささっていて
そこから霊力というエネルギーを得て光り輝いているのだと思います。

 


太陽とは「太陽をしている大霊」です。


太陽とは大霊から「大霊の霊力」を得て
太陽光という光に変圧変換している大霊の仮の姿なのだと思います。

 

太陽も凄いエネルギーだけど、その親である大霊は
その何億倍、何兆倍、否、それこそ無限倍すごいのだろうと想像します。

 

大霊とは。。。

なんというはかり知れなさでしょうか。

なんという実在なのでしょうか。。。

 

これだけ絶対的な実在はありません。

 

本当に実在しているのは

「大霊」ただ一つであると確信します。

 

守護霊と大霊と

人には必ず守護霊がついています。

 

では守護霊と大霊とどちらを意識するべきかと言いますと。


僕の意見ではやっぱり「大霊」です。

 

守護霊も大事な存在ですが、
大霊と比較するとちょっと気の毒な感じがします。

 

守護霊に聞いてみたらどう答えるでしょうか。

「守護霊と大霊とどちらを意識するべきか?」と。

 

何となく…
「お前なあ…。なんちゅうもんと比較してくれてんねん。
まあ、好きにすればええんちゃう?」

と言われそうです。

 

ではやっぱり「大霊」ですわな。

 

とにもかくにも。

 

「大霊一本、大霊一筋」

でなければならない。

 

スピリチュアリズムとは

「グレート・ホワイト・スピリチュアリズム

でなければならないいいい!!

と考えています。


おそらく(僕の)守護霊も同じ意見ではないでしょうか。

 

僕のイメージでは守護霊をはじめ、補助的な指導霊、背後霊といった身近な霊的存在はあくまでも「現場作業員」といったところです。

 

大坂城を建てたのは誰ですか?という問いに、

 

「大工さんです。」という答えと
豊臣秀吉です。」という答え方があるとすると

 

守護霊、背後霊は現場の「大工さん」のような存在です。

 

確かに実際に大坂城を建てたのは大工さんですし。
その通りなんですが。

 

あくまでも現場レベルの話になります。

 

豊臣秀吉です。」という答え方はトップである「大霊」を意識した答え方です。

 

指導霊やその他の補助をする背後霊は現場の現場作業員のような存在です。

 

そのグループをまとめている現場監督のような存在が守護霊になると思います。

 

現場監督と現場作業員がいないと何事も成り立ちませんが、
それらの現場を統合している存在、つまり全てを創造し、全てに指示して力を与え、全てを統合管理している王の中の王としての存在はやはり「大霊」です。

 

本当に凄いのは常に大霊です。


現場の守護霊も確かに働いてくれているけれども
守護霊背後霊といえども大霊の生命を生きているのであって
あくまでも大霊の眷属にすぎません。

 

大霊の霊力を顕現させる通路(媒体・道具)にすぎません。


とはいえ守護霊の存在を意識すると
守護霊は嬉しいと思います。

 

大坂城を見て実際に建てた大工さん思って感謝すると
大工さんは嬉しく思うだろうと思います。

 

「まあ、ほんまに偉いのは豊臣秀吉さんやけどな。
でもあれはワシらが建てたんやで。(ニコッ)」

 

みたいな感じではないでしょうか。

「大霊が摂理ってる」とは

「神ってる」という言い方がありますが、「神懸かっているように凄い、奇跡的」といった意味だそうです。

 

でもですね。

 

「神ってる」と言えば森羅万象の全てが「神ってる」と言えるわけでして。

 

「なんでも神ってますがな」と言いたいです。

 


存在を語る為の哲学の表現にこんな語り方があるそうです。


例えばここに「花」があるとすると、

 

「花が存在している」という表現よりも
「存在が「花」をしている」という表現の方が上手く「存在」を言えているといいます。

 

この表現はとても好きな表現です。


神(大霊)を語る時も使えると思います。


花は→「大霊が「花」をしている。」

山は→「大霊が「山」をしている。」

海は→「大霊が「海」をしている。」

てんとう虫は→「大霊が「てんとう虫」をしている。」

Aさんは→「大霊が「Aさん」をしている。」

耳たぶは→「大霊が「耳たぶ」をしている。」
等々…。。。

 

森羅万象の全てを

「大霊」が「○○をしている」

と言うことが出来ると思います。


大霊によって創造された被創造物を動詞的に言うことで
森羅万象に宿る「大霊」の伏在的な生命性を表現できるのではないかと思います。


この言い方で色々と表現してみますと。。。


例えば「摂理」は

「大霊が摂理をしている」

となります。

 

「神ってる」みたいに言うと

「大霊が摂理ってる」

となります。

 

「○○ってる」という言い方の方が
何となく躍動感があるような気がしますな。

 

「大霊とは摂理のことです。」という言い方と

「摂理とは大霊が摂理ってるということです。」という言い方と

何となく印象が違うものでございます。 

 


「愛」について言うと

「大霊が愛ってる」

となります。

 

無私の愛、与え尽くす愛、人が人を愛する時、
そこに顕現するのは「愛ってる大霊」です。

 

愛がなされるその時、愛をなす人は人というよりも「愛ってる大霊」が顕現する通路(媒体・道具)になるわけです。

何となくいい感じですな。


大霊の象徴と言われる「太陽」はどうでしょうか。

 

「大霊が太陽ってる」

となります。

 

太陽の正体は「太陽ってる大霊」ですので
太陽のエネルギーにはもの凄いものがありますが
その正体が大霊ですから、さもありなんと何となく納得出来るような気がします。

 

全ての呼吸にも「大霊意識」を

シルバーバーチは心配の念や恐怖心、
不安な心や取り越し苦労を抱くことを強く諫めています。

 

こうしたネガティブな精神状態は高級霊界からの援助を遠ざけ、
邪霊など低級霊の影響を大きく受けてしまうので危険であるからです。

 

では何故人間は心配したり、恐怖したり、取り越し苦労してしまうのでしょうか。

 

シルバーバーチによればこれらのネガティブな感情を人が抱くのは
「無知」であるからだといいます。

 

「無知」から心配が発生し、恐怖心が発生するのだと。


では何に対しての無知かと言いますと、
要は「大霊(真理)」に対する無知のことだと思います。

 

無知とは「大霊」についての無理解のことです。

 

「大霊」についての理解が不十分だから
心配したり恐怖したりしてしまうのではないかと思います

 


もし「大霊」の理解が出来ていたら
心配したり恐怖したりは
例えしたくても出来るはずもありません。


大霊の理解が進めば進むほど
心配したり、恐怖したりすることから
無縁になっていくと思います。

 


しかし大霊を理解せず無知のままでいると、
心配したり恐怖したり取り越し苦労して
苦しむようになっているのだと思います。


この場合の「苦しみ」は言わば学びのゲンコツです。

「あなた間違っていますよ」

「大霊の理解から遠ざかっていますよ」

というサインです。

 

とはいえ大霊を理解することも
なかなか難しいことです。


普通は心配や不安の念、恐怖心や取り越し苦労が大霊の無理解から生じていると気付く事自体まずほとんどないと言ってもいいと思います。


ではどうすれば大霊の理解が進むかと言いますと、
積極的な意識の働きかけの努力がその理解のベースになると思います。


シルバーバーチは恐怖心とかを抱いた時は

「自分は大霊なのだ。自分は永遠の存在なのだ。無限の霊力を秘めた存在なのだ。私を破滅させるものは何もない」と自分に言い聞かせなさいと言っています。

 

確かにその通りだと思います。

 

さらに付け加えるなら恐怖心を抱いた時だけでなく、普段の日常からこのように自分を大霊だと確信して、強く思うことが大事だと思います。

 

というのも恐怖心や心配の念を抱いたときだけこうした思いを持とうと思っても
普段から訓練できていないと上手くいかないと思うからです。

 

強く思えば思うほど結果的にそれに相応して大霊の理解が進んでいくはずです。

 

それが「摂理」だと思います。

 

強く強く自分を「大霊」だと思わないといけません。
もっと強く。もっと強く。です。

 

と同時に大霊と共にある嬉しさで明るくウキウキルリリララ♪的な気分でいることも大事だと思います。

 

それこそ如実に守護霊・背後霊等の善霊の援助の影響力も大きくなると思います。

 

全ての呼吸の一つ一つにも強い「大霊意識」を持って呼吸するとよいと思います。

 

心臓の鼓動一つ一つにも強い強い「大霊意識」を刻むくらいの気持ちで普段から意識するべきだと思います。

 


すると何を見てもその本源である「大霊」を意識できます。

森羅万象の全てに「大霊」を感じることが出来ると思います。

 

と同時に「大霊」の理解が深まっていくと思います。

 


結果として心配の念や不安の念、恐怖心や取り越し苦労といったものは
そもそも発生することなどあり得るはずもないことなのだ、ということを悟られると思います。

 

未来の自分は今ここに

大霊の望まれた理想の地上、地上天国は必ず成就する。
シルバーバーチは語っています。

 

遠い未来になるのかも知れませんが、
いつの日か地上天国が大成就すると思います。

 

ではその時、あなたはどうしているのでしょうか。

 

どんな状態なのでしょうか。

 


地上天国が大成就しているということは
あなたも霊的に大成就していることと思います。

 

霊的に完成している状態です。

霊的純度100%のあなたです。

 


霊性の完成に終わりはないとシルバーバーチは語っていますので
まだ先はあるとは思いますが、

ひとまず現時点で想定しうる最高到達点としての

霊的な大成就を達成しているものと考える事が出来ます。


その時のあなたは「遠い遠い未来のあなた」と想定することが出来ますが、

その「遠い遠い未来のあなた」は今はどこにいるのでしょうか。


じつは。。。

「今」あなたの中にいるのだと思います。


「遠い遠い未来」は「永遠」という霊的な尺度で見ると
遠い未来ではなく、すでに「今」ここに存在しています。


つまり霊的に完成された未来のあなたは
すでに今、あなたの中に存在しています。


霊的純度100%の未来のあなたが
すでにあなたの中に存在している。

 

これを「霊」と呼べると思います。

 あるいは「仏」と言ってもよいかもしれません。

 


あるいはこれを「良心の声」の正体と捉える事が出来ます。


よく「良心の声」と言いますが、良心の声とは
遠い遠い未来に完成されたあなた自身が
かつての未完成な自分を振り返って伝えている声なのかも知れません。

 


あるいはこのようにイメージしてみてはいかがでしょうか。

 

あなたは今、遠い遠い未来から(今という)過去にタイムスリップして今生を生きているのです。


遠い遠い未来に霊的に完成されたあなたが、
神から記憶を消されて今生を生きているのだと。

 

あなたは今、過去生の記憶だけでなく未来生の記憶も

消されているのだと。


ただし消された未来の記憶は
完全に消されたわけではなく

 「良心の声」として今生を生きる
指針としてあなたがそれを聞くことを
神が許可されたのだと。


「良心の声」の持ち主は自分です。

自分のことは全部知っています。

 かつての自分も自分だからです。

 


「良心の声」を慎重に聞こうとする者は
より早く未来の完成された自分に近付きます。

 

しかし「良心の声」を聞こうともせず
これを蔑ろにする者は未来の完成された自分に
到達するのには長い長い時間を要する、、、というわけです。

 

 

 

加害者への祈り

地上でいかなる犯罪がなされても

 

犯罪の加害者を憎んではならない

 


加害者に復讐の感情を向けてはならない

 

怒りの感情を向けてはならない

 

裁いてもならない

 

罰してもならない

 


そうではなく祈ってあげよう

 

 

「神よ。どうか彼をお許しください」と


加害者には祈りによって愛を送ろう

 

加害者に祈ることは被害者に祈るのと同じこと

 


罪にはそれ自体の中に

 

更生プログラムとでも言うべき

 

罪を修正する摂理が内在している

 

これを神罰と呼ぶのなら

 

罪は神罰とワンセットで発生する

 


加害者のために祈り

 

彼を愛することによって

 

罪そのものにプログラミングされていた

 

更生の摂理を促すことが出来る

 


加害者に凄まじい後悔の念を起こさせる

 

加害者は反省し

 

罪を償って

 

更生の道を歩み出す

 

そしていつの日か

 

愛に満ちた

 

立派な霊となるだろう

 


もし愛ではなく憎しみを加害者に向けるのなら

 

カルマの連鎖は断ち切れない

 

いつか再び

 

同じ過ちが繰り返される

 


人々は言う

 

「何故このような事件が繰り返されるのか?」と

 

しかし。。。

 

もし加害者に憎しみの念を向けるのなら

 

あなたもその共犯者の一人である

 

  

 

地縛霊を怖がることは不可能

10年前くらいの一時期、憑依が深刻化して身も心もしんどかった時があります。

 

今はもう憑依が深刻化する事はないと思っていますが、
憑依は今もあるのか?というと「ある」と思います。

 

でもあまり気にはしていません。

 

普通に生活していてもバクテリアやウィルスなど
目には見えないバイ菌について特に気にしないのと同じです。

 


瞑想していると瞑想をスタートさせたすぐくらいの時に一瞬

「声にならないような声」をガヤガヤ聞く事もあります。

 


これを憑依霊と呼ぶべきかどうかは解りませんが、

確かに誰か地縛霊がいてワイワイやっているようにも思います。


声は聞こえるような印象はありますが、その意味内容は

ほとんど意識には入ってきません。

 

先日は
「トイレはどこだ?」
という声を聞いたように思います。

 

もしかしたら幽界でトイレを探している地縛霊の声かも知れません。

 


内容的には全くどうでもよいものばかりという印象です。

 

オカンの井戸端会議的な会話にはほとんど霊的価値はないのと同じです。

ワイワイガヤガヤやっているけど全く心に入ってこないという感じです。

 


普通の人は地縛霊を怖がりますが、地上に生きている地上人である我々自身がある意味地縛霊なのであって怖がる必要はないと思います。

 


そもそも地縛霊であっても生命を生きているわけです。

 

生命とは大霊の生命です。

つまり地縛霊も大霊の生命を生きているわけです。

 


霊的成熟度に差異はあるかもしれませんが
シルバーバーチのような高級霊
幽界を迷っている地縛霊も地上の地上人も
同じ大霊の生命を生きているのです。


大霊の生命を生きている地縛霊の正体は大霊ですので
これを怖がったり排除したりする「ビビった考え」を持つべきではないと思います。


憑依している霊を追い出したりする除霊というものあります。


統合失調症で苦しんでおられる方には申し訳ないのですが
僕の意見としては、カールウィッグランド夫妻による除霊治療のような組織された霊団のサポートがある特殊な場合を除いて
ある意味では除霊は必要ないと思っています。


憑依による苦しみはその人自身のカルマに原因があるのであって
憑依霊はむしろそのために仕事をしてくれているという考えです。


あるいは除霊は霊を知らない人に霊の実在を証拠立てるようにして
示してみせるというサンプルとしての価値はあるかもしれません。
(これを「サンプル霊現象」と呼んでいいと思います)


ですが僕の意見としてはある意味除霊は必要がなくて

憑依で苦しんでいる人がいても

「基本はそのままつけておけばよい」と思います。


出来ることがあるとすれば祈りによって愛を送ってあげることくらいです。

愛と祈りは大霊の摂理に適った万能薬だと思います。

そしてもし可能なら身体をやさしく撫でてあげたらいいと思います。

 

必ず「あんじょう」なります。


むしろ地縛霊を怖がったり排除したりするビビった考え、
その心のあり方、心配の念のほうが悪影響があるのではないかと思います。


もし憑依があってもむしろ

 

「よっしゃ。しっかりついておけ!一緒に大霊を学ぼうやないか!」

 

ぐらいの気持ちを持っても良いと思います。

こういう気持ちの明るさや元気さ積極性が重要だと考えます。


というより例え地縛霊による影響があったにせよ
それで大霊を学べるのならそれはそれで良いはずですので
怖がったり心配する必要はそもそも全くないと思います。


シルバーバーチも言うように
「心配の念」は蹴散らさないといけません。


世間では地縛霊の祟りがどうのとか、オドロオドロしい祈祷によってお払いしなければならないとかの話がありますが

「地縛霊みたいなことを言ってるんじゃない!」

と思ってしまいます。

 

そんなことを言っている人自身が地縛霊的です。


地縛霊をビビっていてはいけません。


生命の本源は大霊ですので
迷っている地縛霊も大霊の命を生きています。

地縛霊もその本質は大霊です。


大霊を怖がることは出来ません。

大霊を心配することも出来ません。

なぜなら大霊しか存在していないからです。


大霊しか存在していないのに一体何を
怖がったり心配したりする必要があるのでしょうか?

 

大霊を怖がったり心配したり、、、
そのようなことはそもそも最初から出来るはずもないこと、
構造的に不可能なことなのです。