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スピリチュアリズムでおはようSUN

シルバーバーチの志を学んでいます

花の恩返しから学んだこと

職場のあるダムの管理所から300mほど離れたところに

ぽつんと小さな庭があるんですが。

先日、草刈りをしたんです。

 

そこの草が膝下くらいの高さまで伸びてきていたので

「そろそろ草刈りせなあかんなあ。」と

思いながら見ていたんです。

 

電動芝刈りバリカンという道具で
草刈りしていたんですが。

草刈りの途中で雑草の中に白と黄色のマーガレットのような
野草の花があることに気がついたんです。

 

中央が黄色で白の花びらの花が
5~6本かたまって咲いています。

 

雑草とはいえ花のある草を刈るのは少し気が引けます。

 

かといって刈らないというわけにもいかず
普通は雑草に花があってもそのままバーッと
刈ってしまいます。

 

しかしその時は、雑草の中のマーガレットの様な花をつけた草を
何となくそのまま刈るのは忍びなかったので

 

「ようし!まかせとけ!」
と思いましてですね。

 

そこだけ5~6本の草を刈らずに
そのままにしておいたんです。

 

 

白と黄色のコントラストが綺麗やなあ。と思いながら

 

「かわいいなあ。綺麗やなあ。大霊や。大霊や。」
とニコニコ返しで花に愛を送りまして。


草刈りが終わってから見ると、
刈り残した花のところだけが
ポツンと愛らしく残っていて

 

「ええこっちゃ。ええこっちゃ。なかなか感心なこっちゃ。」
と自分で自分を誉めてですね。

 

なんとなく霊的にすごくいいことをしたような
気になりまして。

ルリリリランランルリリララ♪
だったんです。

 

その次の日のことです。
職場に出勤したら受付のカウンターの
ところにですね。

 

なんと。

 

昨日刈り残したあのマーガレットのような
黄色と白の花と全く同じ野草の花がグラスに5~6本入れて
飾られていたんです。

 

「なんと。」

と思いまして。
すごく愛らしく感じられました。

 

昨日、刈り残して愛を送ったことの
お礼を言いにきたのかな。と思いましてですね。
もう嬉しさがこみ上げてきました。

 

ピンと霊的存在の関与を直観しました。

 

「誰がこの花を生けたのかな?」と
思っていたら、職場では一番えらいさんになる
所長が生けたとのことでした。

 

「へーえ。」と思いましてですね。

 

僕はその時、昨日刈り残した花を所長が見つけて
摘んできたのかなと思いましたが、

昨日の草刈りの現場に行ってみると
刈り残した花はそのまま残っていました。

 

 

つまり所長はどこか違う場所からあの花を摘んで
グラスに入れ受付に飾ったようです。

 

 

所長が何を思ってあの花を活けようとしたのかは解かりませんが

所長の思考をコントロールして
あの花の生えている別のところへ向かわせ
摘んで飾ろうと思わせた霊的存在の関与がないと
このような偶然はないだろうと思います。

 

霊界が動いたら
「動きましたで。」
みたいな感じで霊界が動いた「跡」が
偶然という隠れ蓑に隠れながら

さりげなく自己主張しつつ残されるものです。

 

シルバーバーチ
「偶然といったものはありません」
と言っていますが、霊的世界がその存在(霊的法則)を
表現しようとしたのかも知れません。

 


僕が花を刈り残そうと思ったことも
ほんの少し霊的に良いことだったのだと思いますが

 

所長がやさしい心で野草の花を受付に飾ろうとしたことも
霊的に良いことなのだと思います。


そして受付に飾られた摘まれた花も
刈り残された花(同胞)のお礼をするために
自分を犠牲にしてやってきてくれて
これが一番霊的にすごいことだと思いました。

 

この摘まれた花がある意味ものすごく崇高な
自己犠牲と愛の理想の姿を教えてくれて
いるのかも知れない。。。と思いまして。

 

「霊的に良いこと=霊的成長」
と捉えてもいいと思います。

 

ほんの少しの霊的成長が霊的好循環を生み
全ての存在にリンクして
霊的にも良い影響を生み出して
いくのだなあと思いました。

 

神の摂理・霊的法則を学ぶ上で
まさに自然は生きた教材なんだと
思いました。


飾られた花にはいつも以上に
ニコニコ返しをしてお礼の愛を
送っておきました。

 

「花さん、ありがとう。」

ニコニコニコ♪
パワワワワァァァ。

 

滝から学んだこと

滝に行ってきました。

 

ちりりんさんに滝師匠なんて
大きな名前をつけられてですね。

 

もう、滝に行かざるを得ない感じですわな。

 

僕なんて、とても師匠なんて言われる程の
修行はしていないです。

でも愛情を持ってそのように言われるのは
とても嬉しいです。

 

その日は

「さあ今日は滝師匠の出番やでえ。」と
思いましてですね。

 

「さあ。滝師匠が参上させてもらいまっせえ。」と
思わさせてもらいまして。

 

「ぽん氏、滝に行かざるを得なくなるの巻き」
みたいな感じでございます。


朝は4時半に起きてですね。
早朝の山の中へ入って行くわけなんですが。

 

今の季節はもう5時半頃はかなり明るいですね。

 

冬の5時半は真っ暗ですけども。

 

まだ暗い山に入っていくと
「川明かり」と言いまして
川のところだけが真っ暗でもほのかに明るいのが解ります。

 

川の水というのは
うっすらと光っているんです。

 

水というのは発光しているんですね。

 

僕はこの「川明かり」が好きで
2年程前に熱心に修行していた時は
川明かりのほのかな光に
勇気づけられたものです。

 

滝の水はまだ冷たいとはいうものの
冬に比べると、かなりましになってきました。

 

滝に入る時は神にお祈りをして
気合いを入れます。

 

「神よ。大霊よ。
神のお手伝いをするためにはどうあるべきか
どうかよろしくお教え下さい。」
と祈りましてですね。

 

守護霊にも
「よろしく学ばせてください。たのんます。」
と念じまして入っていきます。

 

滝に入ると身体が滝に馴染んできて
瞑想が深まってくるまで
不動明王真言マントラ)を唱え続けます。

 

「なあまくさあまんだあ…」
言いながらですね。

 

真言は特に必要ないと思いますが
滝に入ってすぐの時など
気合いを入れた状態から瞑想状態へ
移行するまでの間は
マントラ瞑想みたいな感じで
唱えるようにしています。

 

滝の中での身体が馴染み
真言を唱えるのが不要になれば

「ととととと…」

という身体に当たる水の音に
集中しながら瞑想を深めていきます。

 

今回は30分くらい打たれてきました。

 

滝から出ると
最後の締めに川の水で水垢離を
行いまして、その後
顔と頭を洗います。

 

もう濡れネズミみたいに
なりましてですね。

 

身体が芯から冷えて
ボロ雑巾状態です。


それから着替えて
あたたかい服に身を包まれますと
Tシャツ一枚、靴下一枚が
「ありがたいなあ」と
実感出来ます。


普段生活しているとTシャツや靴下に
感謝することはないと思いますが

「行」をすると骨身に沁みて
そのありがたみが実感できると思います。

 

「ああ。なんと靴下一枚のありがたいことよ。
神様ありがとうございます。」

みたいな感じです。

 

そんなとき
「ああ。やっぱり「行」をやって良かったなあ。
今日はいい「行」が出来た。」
と思えるんです。

 

正直、「行」に来る前の日は
ちょっと怖いんですけども、
終わればいつも
「ああ。やってよかった…」と思います。

 

このあたりも修行の魅力だと思います。

 

そして。
何となくですが。。。

 

滝から出て冷えた身体を温めながら
体力を回復させつつある時に、
じわじわと解凍されるように
霊的な存在から頂いたと思われる「意味内容(インスピレーション)」が
現れてくるように感じましてですね。

 

それが前回の記事のタイトルになった

「神が縛ったものは神がほどく」

というワンフレーズです。

 

ここから色々と考えてみて
前回の記事になりました。

 

 「神が縛ったものは神がほどく」

 

もう少し考えを進めますと
神の手伝いをして「縛る仕事」をする者もあれば
神の手伝いをして「ほどく仕事」をする者もある。

 

神の目から見ると両方が必要ですし、

両方が神の使者なんだろうと思います。

 

そして
「ほどく仕事」をする者がスピリチュアリストに
なるのかも知れません。


なんとなく霊的な存在から

「ほどいてやれ」

と言われたような気がしましてですね。

「こら、がんばらなあかんな」と。


スピリチュアリストとして
そういう仕事が出来るように
日常の修行を努力していきたいと
思いました。

 

神が縛ったものは神がほどく

うまい例え話は知性を活性化させ生き生きさせる。と言うようです

うまく例えられているかどうかは解かりませんが

こんな例え話を考えてみました。

 

死後も地上的価値観の束縛が強く、

地上界と霊界の中間にあたる幽界にとどまり

霊的成長の進歩がなかなか出来ない霊を

スピリチュアリズムの用語では地縛霊と言います。

 

いわゆる成仏しない霊(幽霊)という意味で理解してもいいと思います。

 

地縛とは 

物的(地上的・肉体的)な価値観の縛りが強い

という意味だと思います。

この「縛る」という表現は言い得て妙な

表現だと思います。

 

太いロープでグルグル巻きにされているようなイメージ

を抱いてしまいます。

 

ある意味では生きている我々地上人も

肉体の束縛が強い状態なので

地上(肉体)に縛られているという意味では

「地縛」状態になるのだと思います。

 

それにしてもこの「縛る」という表現ですが、

では誰が地上に「縛った」のでしょうか?

 

縛った主体は誰かというと

全てのものの第一原因である

「神(大霊)」になると思います。

 

「神によって縛られた=神によってベールがかけられた=神によって物的世界は作られた」

と理解してもいいのかも知れません。

 

地上人は肉体が死ぬと肉体を捨てた霊的存在になり

地上的な縛りから脱していくものと学んでいます。

 

しかし地上的な価値観・感情の影響が強く

自分で自分を縛るように

 霊的成長の道を歩めない地縛霊もいるようです。

 (「自縛霊」と表現できるのかも知れません)

 

一方では、生きた肉体を持った状態でありながら

地上的な縛りから(部分的に)脱してしまう霊もあって、

 それが霊的覚醒しているスピリチュアリストになるのかも知れません。

 

(部分的に)としたのは、例えスピリチュアリストでも

生きた肉体を持っている以上、

肉体的束縛から完全に脱することは

到底不可能だと思うからです。

 

生きた肉体を持つものが霊的覚醒するには、

苦しみの経験が必要です。

ーーーー

悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線にふれた時、一番よく魂の目を覚まさせるものです。魂は肉体の奥深く埋もれている為に、それを目覚めさせる為にはよほどの体験を必要とします。

シルバーバーチの霊訓(1)P55

ーーーーー

 

この場合 

例えて言うならこんな表現が出来るのではないでしょうか。。

 

太いロープでグルグル巻きにされている地上人をイメージしてください。

 

神は生きた人間から

地上的な価値観という太いロープの縛りをどのように切るかというと

やさしくロープをほどいてくれる、のではなく

 

むしろそのロープの縛りをギュウギュウに強めるのです。

 

そしてロープの耐久性の限度を超え

ロープが痛んで「ブチッ」っと千切れるまで

ものすごい力で縛りを強めます。

 

このように縛りを強めて強めて

ロープを弱らせて

生きた肉体から地縛のロープをブチ切る。。。

 

こんなロープの解き方があるように思います。

(カルマの切り方と表現してもいいかも知れません)

 

しかしロープの縛りが強められている

その最中は中にいる人間はたまったものではありません。

 

相当な苦しみを伴うと思います。

しかしそれに耐えてこそ、魂は鍛えられるのだと思います。

 

その苦しみはその人の霊的背景に釣り合った苦しみで

その人にとってなくてはならない必要な苦しみです。

神は完全です。

間違うということがありません。

 

 

ロープの縛りが強められている最中は

あまりの苦しみに「死んだほうがましだ」と

思うかもしれません。

 

あるいは早まって自殺の道を選んでしまう場合もあると思います。

 

しかし神はその人に耐えることの出来ない苦しみは

お与えになりません。

 

ロープの強さ < その人の魂の強さ

 

ロープよりもその人の魂の強さのほうが頑丈にできている。

神はそれを知悉しているからこそ、縛る力をゆるめない。

必ずこのような構造になっているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひと手間を かけて霊性 整える♪

シルバーバーチの霊訓(1)潮文社

善のための努力が無駄に終わることはありません。

人のための試みも無駄に終わることはありません。

善行に嫌気が差してはいけません。

成果が表れないことに失望してはいけません。

人のために役立とうとする願いは、自動的に霊の世界からの援助を呼び寄せます。

決して一人であがいているのではありません。

どんな状況のもとでも、まわりには光り輝く大勢の霊が援助の態勢で取り囲んでいます。

裏切ることのない、その霊の力に絶対的な信頼を置き、頼りにしなさい。

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僕はダムや河川に関して管理する仕事をしています。
仕事上、週に3~4回は川のすぐそばまで行きます。

川の水に直接触れる機会もよくあります。

 

そんな時、仕事とは別に川に落ちているゴミを一つか二つ
ほんのわずかですが拾って持ち帰る
プチ清掃活動をしています。

ルリリリランランルリリララ♪

 

片手で持ち帰るほどの本当にわずかなゴミ拾いです。

 

申し訳のないことですが
たくさんゴミ拾いすることはありません。

それは負担になってしまうので
片手間に出来る範囲にとどめています。

 

ですがたった一つでもゴミをそこから無くすことによって
それだけ河川はキレイになるわけで。。。

 

それだけ「川」や「水」が喜んでくれるだろう
という思いでやっています。

 

ほんのわずかなゴミ拾いでは
河川は物理的にはまったくキレイにならない
と思います。

 

ほぼ自己満足の世界です。

 

ゴミは途方もなく膨大にありますから。


しかし、ほんのわずかでもゴミを川から掃除すれば
それだけ「川」が喜んでくれると思います。
「水」が喜んでくれると思います。

それだけ「川」がニッコリ笑う。と思うのです。

 

 

僕は水に関する仕事をしているので
水に対する感謝は常日頃から特に意識しています。

 

「川よ。ありがとう。」
「水よ。ありがとう。」
「雨よ。ありがとう。」
ルリリリランランルリリララ♪

 


水に対する感謝を、
プチ清掃で表現するという意味もあります。

 

また水に感謝することで自分の仕事に対する姿勢を正す
という意味もあります。

 

そこにわずかですが、霊的な進歩があると思います。

 

こんな句を作りました。

 

ひと手間を かけて霊性 整える♪

 

まさに

ルリリリランランルリリララ♪

だと思います。

 

 

 

 

 

 

公開ヒーリングに参加して

日本スピリチュアルヒーラーグループさんが主催される、
公開ヒーリングに行って参りました。

 

僕が参加した第15回公開ヒーリングは
平成29年4月29日京都の長岡京市で開催されました。

 

何日も前から心待ちにして、そわそわしていました。

 

当日は今までの人生を振り返り、色々と紆余曲折があり
「ついにここまでたどり着いたのだなあ…。」
という感じがして、感慨深いものがありました。

 

今から思うと、僕の人生において
スピリチュアリズムに導かれる時期というのは、
僕が生まれる前から計画は
出来上がっていたのだと思います。

 

とはいえ、人生の現場で僕をうまく導くために
見えないところでサポートしてくれていた
守護霊はじめ指導霊、背後霊団に
深く感謝せずにはいられませんでした。

 

人生の節々でいつも側にあたたかく寄り添ってくれている
霊的存在がいたことを何となく感じることもありました。

 

「守護霊さん、ありがとう。ようやくここまで来れました。」
と感謝の思いを捧げました。

 

公開ヒーリングの場は
本物のスピリチュアリズムを体験できる場です。
霊界の高級霊と直接コンタクト出来る
貴重な場であると思います。

 

 

僕にとって公開ヒーリングの場は
ある種の人生の節目のように感じられました。

 

受付をすまし、ヒーリングが始まるまでの間を待ちながら
これまでの人生を振り返り、
ふとこんな思いを抱きました。


あの孤独の中で震えていた時も、
あまりの苦しみに床をかきむしった時も、
悲しみの絶望の中で涙が止めどなく溢れた時も、
極寒の中、泣きながら修行したときも
すべては今この場所にいたるまでの
道の途中であったのだ。と。


当時のことを懐かしく
またいとおしく感じました。

 

 


霊界の霊医が霊的エネルギーを送ってくれるという
スピリット・ヒーリングの説明を一通り受けてから、
3人のヒーラーの方々が入場してきました。


ヒーラーが入場してきた瞬間
涙が溢れました。

不思議な感覚でした。

 


ヒーラーの方々は仏様のような
あたたかみに満ちた神々しい雰囲気がありました。

 


ヒーラーの方々もこうしてヒーラーとして
ヒーリングの奉仕に導かれるまで様々な苦難を
体験されてきたのだろう、と思いました。

 


6人の患者の代表者によるメインのヒーリングが終わり、
最後は今日の参加者一人一人全員がヒーリングを受けました。

 


僕も軽く両腕に触れてもらいヒーリングを受けました。
あたたかくて、やさしさに満ちた霊妙なきめ細かい
エネルギーが癒してくれているように感じました。

 

今回の公開ヒーリングに参加して

全体を通じてこんなことを思いました。

 

「ああ。なんと偉大な高級霊なんだろう。
出来ることなら自分もまた
あれら高級霊のようになってみたいものだ。
自分を役立て、神の御子に奉仕することによって神に奉仕し、
そのようにして神のすぐそばにいることが出来たら…。」

 

「神よ。どうかあなたのすぐそばにいさせて下さい…。」

 

畏れ多いことですが、何となくこんな思いを抱きました。
そして感動の涙が溢れました。


スピリット・ヒーリングの本当の第一目的は
病気を治すことではなく、魂の琴線に触れて
霊的覚醒のキッカケとなることです。

 

僕も今回のヒーリングで自分の人生を改めて
振り返り、魂の琴線に触れたような気がします。


そしてますます神(大霊)への敬慕の思いを強くしました。

 

 

ふとインぺレーター霊の神への忠誠心を思い出しました。

 

インペレーター霊は次のように神への思いを述べています。

「我らは神のために生き、神に向かって生きてゆく。
神の意志を知り、それを実践しようとする。
そうすることが自分のみならず、全ての創造物に対しなにがしかの
貢献をすることになると信じるからである。
またそうすることが神に対する人間としての当然の敬意を
表明するゆえんであり、神が嘉納される唯一の献上物なのである。
我らは神を敬愛する。神を崇拝する。
神を敬慕する。神に絶対的に従う。」

 

インペレーター霊の「霊訓」のこの一節は
何度読んでも、この「神に絶対的に従う。」という
ところで目頭が熱くなります。

 

あれら先を歩まれる諸先輩の
高級霊の後を慕い、自分も同じように
「神に絶対的に従う」道を歩みたいと
決意を新たにしました。


今回、公開ヒーリングに参加させていただき
貴重な時間を過ごさせていただきました。

 

公開ヒーリングを開催していただいた
日本スピリチュアルヒーラーグループさんをはじめ
主催者の方々に深く感謝したいと思います。

 

本当にありがとうございました。

 

苦しむことも「仕事」のうち

霊的な意味での

「仕事」について考えました。

 

世の中にはいろんな仕事があります。

 

職業という意味での仕事だけでなく、

日常生活で掃除したり、何かの作業をしたり、

何らかの活動すること(生きること)を仕事と捉えることが出来ると思います。。。

  

何か仕事をしている人に

「精がでますなあ」

と声をかけたりしますが、

 

仕事の本質とは「精をだすこと」。

つまり霊性を使い、発揮することではないか。。

と思います。

 

 

よい仕事は、

そこで出来る限り

自分の霊性を発揮し、

霊的に成長した痕跡が残るものなのかもしれません。

 

 

仕事といっても、

霊的な意味での「仕事」があると思います。

 それは神(大霊)から与えられた「仕事」です。

 

地上の人間だけでなく、

花や木、虫や魚や鳥などの動植物のみならず

霊界の霊的な存在も

神が創造された全ての

存在に各々与えられた仕事があって

その仕事を神に奉納するべく

コツコツとモクモクと

やり遂げなければならないのだと思います。

 

例えば病気で苦しんでいる人は

苦しむことが仕事なんだと思います。

 

病苦に苦しむ人は

大変だとは思いますが、

 

そこで苦しむのが

神から与えられた仕事であって

立派にその仕事をやり遂げて

 

神(大霊)にその霊性の成長を奉納しなければならないのだと思います。

 

 

 

 霊的な意味での仕事のほうが

地上的な意味での仕事よりもはるかに重要です。

そこにその人が生まれてきた霊的意味があるからです。

 

 

障害を持って生まれてきた方は

障害を引き受けるのが

神から与えられた仕事であって

その道で立派にその仕事をやり遂げなければならないのだと

思います。

 

神は完全です。

間違うということがありません。

全ての人それぞれの霊的背景にふさわしい

「仕事」を全ての人それぞれに

お与えになられていると思います。

我々はその「仕事」を立派にやり遂げねばならないと思います。

 

 

障害があるから神を恨むのは神の理解が間違っています。

 

その人が神に愛され神の愛が完全無欠で機能しているからこそ、

その結果として障害があるわけであって、

つまり障害があるからこそ神に感謝しなければならないのだと思います。

 

重い障害で一生を寝たきりで

生きなければならない人もいると思います。

 

物(肉)の目で見ると何もすることが出来ない

気の毒な人生のように見えるかもしれませんが、

 

霊の目で見ると

その人にしか出来ない

神から与えられた仕事を立派にやり遂げた、

難しい仕事を成功させた、

偉大な人になるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花にはニコニコ返しで

花はかわいいですね。
花を見ると自然に笑顔になっています。

 

花を見ると花に笑顔のお返しをするという。
僕はこれを
「ニコニコ返し」
と愛情を持って呼んでいます。

 

花は色々です。
桜のような木に咲く花もあれば
チューリップのように庭に咲く花もあります。

 

僕が好きなのは野や山に自然に咲いている花です。
人知れず控えめに咲いている小さな花の愛らしさ。

 

色とりどりの可愛い花に
命を創造した大霊の愛を感じます。

 

花という大霊の愛に
感謝の笑顔を送ることで
花にお礼をします。

 

花を見つけると
「あっ。花や。ようし!ニコニコパワーを受け取ってな。」
ニコニコニコニコ。パワワァ~。
みたいな。

 

 

新しい命が芽を出し、花が咲く
春の山のことを
「山笑う」
と表現しますけども、花や新緑の生命エネルギー
は笑っているようにも感じられます。

 

 

花が持つ笑顔の生命エネルギーに応えるべく、
大霊の愛に応えるべく
花を見たらニコニコ返しでルリリララ♪。

何となくよいことをしたような気分になります。

 

笑顔は花であり、花は笑顔である。

 

笑顔には霊的なエネルギーが宿っている
と思います。

 

花を見たらピュアな心でニコニコ返し。

 

笑顔を送られた花も、その愛を受け取り
霊的に成長するようにも思います。

 

童子のような純粋な心で花に笑顔を送る。
たったそれだけで花も霊的成長するし
こちらも霊的成長すると思います。

 

霊的成長というと何となく

難しそうなイメージがあるかも知れません。


ですが、あまり難しいことを考えなくとも
ただひたすら花に笑顔を送るだけでも
立派な霊的成長になると思うんです。

 

何か辛いことがあって、
落ち込んだり苦しんでいる人も
簡単に出来ると思います。

 

シルバーバーチも言うように
「自分を役立てることこそ唯一の宗教」
です。

 

花の霊的成長の為に自分を役立てることで

自分も霊的に成長する。

 

そんな愛の交流を
大霊はお喜びになってくれると思います。

 

修行とは何のためにあるのか?

滝に行ってきました。

僕の中では滝行は個人的な娯楽の一種で、
趣味的なものです。

 

スピリチュアリズムでは極端な肉体行は
オススメは出来ないものとして否定されています。

 

なぜその「行」をやるのかという動機にもよりますが、
「行」をすることによって低俗なエゴ性を強めてしまいかねない
危険性があるからです。

 

霊的真理の知識がなく

物質的価値観の束縛が強い「この世」的な思いで

修行をするのは確かにあまりよくないと僕も思います。 

 

「行」をする行者の動機に邪なところがあると、
低級霊系の霊的世界に通じてしまい
肝心の霊的成長に支障をきたす恐れがあります。

 

霊的真理の知識はスピリチュアリズム普及会さんのサイトで学ぶことが出来ます。

スピリチュアリズムとシルバーバーチの霊訓の総合サイト〜スピリチュアリズム普及会

 

僕としても修行に伴う危険性は重々承知しているつもりなのですが。。。

 

ただ何となく縁のようなものも感じていまして、
滝から学ぶこともあると思いますので
趣味としてボチボチと続けていきたいと思っています。

 

「滝から学ぶ」というのは最近感じるようになったことです。

 

滝行をやり始めた時は

山、川、草木、花、風、鳥、等々の自然から

「学ぶ」「学ばさせていただく」

という意識はありませんでした。

 

まだまだ未熟な僕が言うのも恥ずかしいのですが、

「行」を続けていく中で

自分の魂が耕されて

知らず知らずの内に霊的な成熟があったのかも知れません。

 

滝に入ってすぐの間は冷たさと寒さと衝撃で心がざわつく時間があります。

すごく呼吸が苦しいです。

覚悟を決めて気合を入れて滝に入っても

心のざわつきはしばらく続きます。

 

しかし不思議なもので、ある一定期間を過ぎると身体が慣れてきて、

冷たさや寒さや衝撃からくる肉体の「苦しさ・辛さ」のようなものが

ましになってきます。

峠を越えて何となく落ち着いてくるような感じです。

 

心のざわつきが終わり、魂が鎮まってくるような感じです。

腹が据わってくる、といいますか。。。

 

これをスピリチュアリズム的に説明すると

滝に入った当初はまだ

肉体的なパーセンテージが大きい感覚があるため

苦しみや心のざわつきを感じるのかもしれません。

 

それが峠を越えるように徐々に肉体的感覚から

霊的感覚に移行していくことで、当初感じていた

肉体の苦しさが緩和されてくるのではないかと思います。

 

 

肉体的パーセンテージ大(肉主霊従)→肉体的苦しみ感・大

霊的パーセンテージ大(霊主肉従)→肉体的苦しみ感・小

 

こんなイメージでまとめることが出来ると思います。

 

 

死にいたる過程(病苦など)においては肉体的な苦しみを感じる場合もあると思います。

しかし肉体と霊体のシルバーコードが切れる実際の「死」に際しては苦しみは感じないと学んでいます。

 

人が死んでいく過程にも同じことが言えるのかも知れません。

 

肉体的パーセンテージ大の時は苦しみを感じますが、

肉体の弱体化とともに

霊的パーセンテージが大になると苦しみを感じない。ということだと思います。

 

修行には死の疑似体験を学ぶという要素もあるのかも知れません。

 

 

僕は滝から出るとすぐ、その日の最後の締めに川の水で水垢離を行います。

実はこの水垢離が滝行よりも冷たくて辛いのです。

そしてその川の水で顔を30回ほど洗います。

 

 

寒さと冷たさで身体を動かすのが苦しく、動きがスローモーションになります。

何かを考える余力は最早ありません。

 

その日の僕は滝に向かって

「ありがとうございましたー!」

と礼をしながら絶叫していました。

 

なぜかは解かりませんが、本当に行場がありがたいと思ったのです。

 

「行」が終わってからしばらくたつと

心にジワジワと湧き出るように浮かんできた考えがあります。

 

それは

「愛こそ本当の修行」

というワンフレーズです。

 

ああ。まさその通りだ。と思いました。

 

本当の修行は

「愛」

なのです。

 

滝行などの宗教的な修行は本当の修行ではなく

本当の修行を行う前の準備運動・擬似的な練習のようなものにすぎない。

と思います。

 

修験道には

「山の行より里の行」

 という言葉があります。

 人生という現場こそが本当の行場なんだと思います。

 

滝などの行場での修行は

人生の現場という行場の一部に過ぎません。

 

 

滝などの行場での修行は擬似的な修行。

人生の現場という行場での修行こそ本当の修行。

 

擬似的な修行を行う場合はこうした謙虚さを

忘れてはいけないと思います。

 

 

ただ擬似的な修行の醍醐味は、

人生において極めて重要なことではあるけれど

人生という現場では忘れがちな

誰もが気にもかけないごくごく当たり前のことを

修行を通じて、

むき出しになった魂を通じて

魂のレベルで、

魂が絶叫するように

骨の髄から確信納得する。

というところだと思います。

 日常を見る目が変わるキッカケになると思います。

 

 

知識として頭で学ぶのと、

叩きのめされて叩きのめされて

魂のレベルで骨の髄から学ぶのとでは違いがあると思います

その解かり方。納得得心の仕方。が根本的に違います。

 

 

愛こそ本当の修行

 

それはあまりにも当たり前のことで

まさに真実であると思います。

 

 

霊的な存在から直接手渡しするように

何かを教えてもらう。

何かを学ぶ。

 

その内容はごくごく当たり前のことで

「そんなことぐらい、わざわざ修行しなくても知ってるよ」

と一笑に付される様な

あまりにも単純なことかも知れません。

 

しかし

まさにだからこそ修行はあるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神(大霊)の道具はいたるところに

大きめの天然温泉に行きましてね。
関西最大店舗ということで
いつか行ってみたいと思っていたんです。

 

夜の露天風呂に入っていた時の事です。

 

お湯に入っているときは気持ちのいいもんですね。
適度な温度があればこんなに水は心地いいものかと思いました。

 

これが水だったら冷たい冷たい。

 

こんなに心地よくはないでしょうな。
まさに苦行になります。

同じ水なのにどういうことかと思いました。


最近、滝に行ってませんから。
冬の滝行は厳しいです。

しかし温泉のお湯は気持ちよくて
ありがたいものです。

 

湯船にお湯がバーっと落ちてくるところがあるんですけども。
そこで背中にお湯を当てまして。
プチ滝行気分してたんです。

 

そこで霊的な考えが浮かんだんです。

「神の道具ってこれかなあ」

みたいなね。

 

その場での神の道具は「お湯」だと思ったんです。

露天風呂のお湯に入りながら
「このお湯が今まさに神の道具」って思いましてですね。

 

自然はみな神(大霊)が作った創造物です。

 

気持ちよく風呂に入り「お湯」に当たっていますけども。

「お湯」もまた神の創造物だなあと。

 

神の創造物といえば、太陽も月も、花や草木も、かわや海も、
霊も霊界も、みな神が作った創造物です。

 

そのすべてに神の御心
その計画の実現へ向けての役割があるわけです。

 

どんなものでも神の創造物は
一つ一つがみな全て神の道具なんだろうな
と思ったわけです。

 

 

お風呂に入っている人は皆気持ちよさそうです。
勿論僕も人間の一人としていい気分でお湯に
つかっているんですけども。

 

「お湯さん。たくさんの人々の役に立ってますなあ」
と敬礼敬礼ですわ。

 

「こんなところに神の道具の先輩がいはった」
「これは先輩の「神の道具」に学ばせてもらおう」
と思いましてですね。

 

「お湯のバイブレーション」に波長を合わせるべく
軽くその場で瞑想いたしました。

自分を「お湯さん」と同一化するような感じで。

 

お湯が自分で、自分がお湯で。

 

「神よ、このお湯さんのように
神のお手伝いをする為には
どのようにあるべきか教えてください」

と最初に祈りましてね。

 

 

こんな感じで自然と同一化する瞑想をすると
霊的にすごく良いと思いました。

 

美しい自然、神の愛あふれる「自然」は無数にありますから。
無数に神の道具が我々の「目の前」にあるわけです。

 

これらの諸先輩の方々に神の道具はいかにあるべきかを
学ばせていただくことは日常の生活でも
意識的でありさえすればいつでも可能だろうと思います。

 

滝行にもそういう要素はあるのだろうと思います。
水から「神の道具」であるためにはどうあるべきかを学ぶという。。。


自分が水で、水が自分で。

 

人間だけでなく生命を育成させる為には
水は不可欠なものです。

水が受け持つ神から与えられた仕事の
巨大さは人間の想像をはるかに越えるものなんだろうなあ。。
と思ったりしました。

 

そんな感じで露天風呂で瞑想してたんですが、
すごく充実した気分になりましてですね。


その時ですが。

ふと
「上を…」と
何かに語りかけられたような感覚がしましてね。

 

「えっ?」と

ふと上を見ると月が出ていたんです。

はっとするような綺麗な三日月でした。

 

「ああ。太古の昔より変わらぬ月の美しさであることよ。」
みたいな感動がありました。

 

綺麗な月でさらに心が洗われたような
ありがたい気持ちになりました。

 

おそらくですが。
「上を…」
と語りかけてくれたのは
霊的な存在なんだと思います。

 

自分の悪口も言ってはならない

「私にとって神々は永遠不変にして全知全能の摂理としての宇宙の大霊です。私はその摂理にいかなる不完全さも欠陥も不備も見つけたことがありません。原因と結果の連鎖関係が完璧です。この複雑を極めた宇宙の生命活動のあらゆる側面において完璧な配慮が行きわたっております。例えば極大から極微までの無数の形と色と組織をもつ生物が存在し、その一つ一つが完全なメカニズムで生命を維持している事実に目を向けていただけば、神の法則の全構図と全組織がいかに包括的かつ完全であるかを認識されるはずです。」(シルバーバーチの霊訓3 潮文社)

 

僕にも僅かながらインスピレーションによる霊的交信と思われる経験があります。

 

今から4年程前になります。そのときはまだスピリチュアリズムに導かれていない時で、霊的真理の知識もほとんど無い状況でした。

 

地元の寺に参拝した帰り道のことでした。

なんとなく天空から話しかけられたような気がして回りを見渡したのを覚えています。

すごく不思議な感覚でした。

心にポトリと落とされたように届けられた「意味内容」を感じました。

 

それは

「人の悪口を言ってはならぬ」

というものでした。

メッセージたというか、何となく感じた内容はただそれだけです。

本当にただそれだけでした。

 

「人の悪口なんて言ってないけどなあ…」

と思ったのを覚えています。

 

当時は人の悪口に関して特に意識していたわけではありません。

でも特に人の悪口を好んで言っているわけでもなく、

むしろ自分が人から悪く言われても

こちらからは相手の悪口を言わないように意識していたほどです。

 

なので「人の悪口は言っていないけどなあ…」と思ったのです。

 

しかしそれからしばらくして思うようになりました。

当時は確かに人前では人の悪口は言わないようにしていましたが

ひとり言では人の悪口を言っていたのでした。

 

独り言なら他者に迷惑はかからないだろうという思いがあり、言ってもいいのではないかとつい思ってしまいます。

うっ積した思いを独り言で悪口を言うことによってストレスを発散させていたのです。

 

しかし悪口というものはそれを口にするだけで

霊的に良くないことなのだと思いました。

 

「これはいかん。」と思いました。

赤面赤面です。

 

例えひとり言であっても人の悪口を言うことは良くないことなのだと思います。

 

それからしばらくしてまた気づいたことがあります。

それは自分の悪口も言ってはならない、ということです。

 

失敗したり上手くいかないことがあると

「ああ、自分はダメだなあ。自分はダメ人間だ。なんて情けない奴なんだ。」

みたいな感じで落ち込んでしまうことがありますが、これも霊的に良くないのだと思うようになりました。

 

自分を悪く言うことは、謙虚さや反省の表現になる部分もあるので

社交辞令としては良い面もあるのかもしれません。

 

しかし自分の悪口を言いすぎることは霊的に良くないことだと思います。

例え独り言であっても自分(人)の悪口を言ってはならない。という。

 

「人の悪口を言ってはならない」の「人」には自分も含まれます。 

 

自分という存在はその身体も個性も神から頂いたものです。

 

いわば自分という存在は神からレンタルしたレンタル品です。

いつかは神にお返ししなければならない借り物なんだと思います。

その借り物に対して、これは粗悪品だとか劣っているとかダメだとか悪口をいうことは

それを与えた神に対し文句をつけていることになるように思います。

 

神が与えたもの、神からレンタルしたものは人それぞれ違います。

人それぞれの霊的背景にふさわしいものが与えられていると思います。

 

神は完璧です。間違うということがありません。

 

自分という存在のその本当の所有者は自分ではなく

神(大霊)なのだと思います。

 

そのことを忘れ自分の悪口を言うことは

摂理違反になるのだと思います。

 

摂理違反の結果どうなるかというと

「苦しみ」がやってくる。というわけです。

 

以上が僕が感得したインスピレーションとそこから学んで考えたことです。

 

「人の悪口を言ってはならない」

という単純な内容ですが

霊的な存在から直接頂いたという意味では

大変ありがたい教訓として生涯大事にしていきたいと思っています。