スピリチュアリズムでおはようSUN

大霊一筋!の「ルリリリランランルリリララ♪」的なブログです。

初参りでのサプライズ

先日、娘の初参りに行ってきました。

今住んでいるところの地元の神社です。

 

家族が揃って行う本格的な初参りは後日にして
とりあえず今年の正月に初詣に出かけた近くの神社に
プチ初参りということで、妻と娘と僕と3人で行こうということになりましてね。


初めてのベビーカーで行って参りました。

 

歩きながら途中の道路で咲いている花を見ながら

「ほらほら。花がきれいやなあ。」

とか言いながらですね。


神社に着きまして、お参りをしてきました。

 

子供が出来た報告をして来ました。


ちなみに僕は神社でもお寺でもどこでも祈る対象は
常に「大霊」です。


「大霊」の下ではそれこそ様々な霊的系統があるとは思いますが
行き着くところは必ず同じ(大霊)です。

 

神社やお寺にお祭りされている高級霊が誰であれ
全て大霊の眷属にすぎないという理解です。


お祈りはこんな感じでしてきました。

 

「娘を授かりましてありがとうございます。娘が人々の役に立つことで「大霊」のお手伝いが出来るようになりますように。そして常に「大霊」とともにあり、「大霊」として幸せでありますように。」と。

 


その後は神社の境内でのんびりしましてね。

妻が娘にミルクをあげているところをスマホで写真にとったりしました。


そろそろ帰ろうかとなって鳥居に一礼して外に出たんですけども。
その時どこからか音が聞こえてきましてね。


どこかで音楽が鳴っているのかなあと何気なく思ったんですけど
妻が言うには僕のバッグから音がしてるみたいだと。

 

「えっ?なんで?」と思ったんですけどバッグを開けてみると
僕のスマホから音楽が鳴っているんですね。

 

「なんと!」となりました。

 

スマホを見てみると音楽のアプリが起動していましてね。

 

「アメージング・グレイス」が鳴っていたんです。

 

僕のスマホは買って4年目になりますが普段はこのスマホ
音楽を聞くことはありません。

 

そもそも僕のスマホに「アメージング・グレイス」の曲が入っていることも知りませんでした。


自分のスマホにこんな音楽の機能があったのかとその時初めて知ったような感じだったので余計に「見えない存在」の関与を感じました。

 


先ほどスマホで写真を撮っていたので、その時知らない内に変なところを触ってしまって音楽が鳴り出したのかも知れませんが、スマホをバッグにしまって15分くらいはたっていましたし、鳥居を出たタイミングで鳴り出すのもやはり考えられないような偶然です。


しかも曲が「アメージング・グレイス」とは。。。

 

霊界が演出してくれたんだと直感しました。

 

「大霊や!」

 

妻も不思議な出来事に息を飲んでいました。


「おそらく神様が僕らを祝福してくれたんやろう。」

 

僕は感動して目頭が熱くなりました。

 

「神様ありがとうございます!」

僕は心の中で叫びました。


「アメージング・グレイス」は素敵な曲だとは思っていましたが
今回の件で特別な曲になりました。

 

大霊が娘に授けてくれた曲のように感じられて仕方ありません。

 

「よかったなあ。神様からテーマソングをいただいたよ。」と。

 

それからすぐに「アメージング・グレイス」のCDを買いました。

娘に時々聞かせています。

 

妻も「人生のテーマソングがあるって素敵やなあ」とすごく感動して
英語の歌詞を覚えながら子守歌に歌ってくれています。


なんとも思い出に残る初参りになりました。

 

いつの日か娘が大きくなった時に
この日の出来事を話してあげようと思います。

 

 

 

娘に伝えたいこと

娘が生まれました。
この子に霊的にも十分な教育をしてあげたいと思っています。

 

どんな霊的教育がいいかなあ、と色々考え中なんですが
僕が知っていることは全部伝えたいと思っています。

 

先日は初めて娘を車に乗せましてね。

いつも聞いているシルバーバーチ霊訓のCDを一緒に聞きました。

 

生後すぐの乳児からシルバーバーチ教育ですわな。

 

「霊こそ実在です」言いながらですね。

 

まだ首がすわっていない娘は首がグリンとなって天井を見ていました。

 

「首がえらいことなってるで」と妻に言いながらもCDからは

「苦難こそ魂の肥やしです」ですわな。


娘を抱きながらふと思うわけです。

 

「この子をもう二度と生まれ変わらせないようにしっかりとサポートしないといけない」と。

 

子供を作っておきながら、その子がこれ以上地上に生まれ変わることのないように願うのは何かとんでもなく矛盾しているような気もしますけども。。。

 

娘に語りかけるわけです。

「これが最後の転生になるだろう」と。

 

もちろん人には様々な霊的背景があり一概には言えないことではありますが。
ついそんなふうに思ってしまいます。

 


そんな娘に霊的真理でまず教えてあげたいと思うのは
霊的には「他人がいない」というそのことです。

 

これは言い換えれば「全ては大霊」というのと同じ意味なんですが。

 

霊的な世界では自他の区別はなく、全部が大霊なんだと。

 

徹底的に英才教育をして叩き込んであげようと思うわけです。

 

頭のオカシイ親父がまたわけの分からないことを言っていると
娘に思われるかも知れませんけども。。。

将来、娘とぶつかるかもしれませんが、霊的な知識はいつか必ず役に立つものですから。

 

徹底的に骨の髄まで英才教育をして「他人はいない」というその絶対的な事実を分からせてあげようと思うわけです。

 

もしこの「他人はいない」ということが分からなければ、そのことが理解出来るまでまた何度も転生してこなければならないのではないかと。。。

 

そんな印象を持っています。

 


ですので結構重要な地上の学びになると思います。

 

「他人がいない」というのはどういうことかと言いますと。

 

「私はあなたであり、あなたは私」ということでして。。。

 

私とは何かというと「大霊」です。
あなたとは何かというと「大霊」です。

 

全ては「大霊」(の生命)であって、それ以外の何ものもなし。

ということです。


「類魂」という「学び」がありますが、その要点は
「他人がいない」ことを強調するものだと思います。

 

霊的同胞世界とは「他人のいない世界」であり
全ての「主」は「大霊」であることを皆が知っている世界になると思います。


例えば1人と30人と500人と8000人の人がいるとしてその霊を全て足すと何人になるでしょうか?

 

地上的な答えは

1+30+500+8000=8531

になると思いますが、

 

霊的には

1+30+500+8000=1になると思います。

 

何人の人がいようが合計すると(合計しなくても)
常に「一人」です。

 

その一人とは誰ですかというと
「大霊」です。

 

我々は皆「大霊」の生命を生きているのであって
その意味で全ての人は全く同じ生命であり「他人がいない」のです。

 


にもかかわらず「他人がいる」と認めてしまって

自分とアイツとは違うんだ。アイツ(達)は悪い奴で自分(達)とは違う存在なんだ。
アイツは悪い奴だから叩いていいんだ。排除していいんだ。やっつけていいんだ。


などという排他的な世界を生きてしまうと

「もういっぺんやり直し」(学び少なく転生の要あり)

になるのではないかと思います。

 


こんな感じで娘には霊的教育をしていきたいと思います。

 

このブログを将来、娘が見ることも想定しながら
自分が今、思っていることを書いていこうと思います。

 

赤ちゃんが生まれる

先日、赤ちゃんが生まれました。女の子の赤ちゃんです。

 

ついに僕も42歳で初めて父になりましてね。

 

「えらいもんやなあ。」言いながらですね。

何か不思議な感じがします。妻には感謝感謝です。

 

妻と僕は同い年でしてね。

42歳での初産で、色々と不安要素があったんですがよく生まれて来てくれたなあ、と思います。

何から何まで奇蹟ですわ。。。


色んな事を思い出しました。

妻と初めて出会った時のことから、導かれるようにして結婚したことまで。

妻との出会いも不思議な出会いでした。僕が修行していたお寺と関係があるんですけどね。

 

あの時、修行しようと思ってなかったら妻とも出会っていなかったのかなあ。なんて思ったりもします。

 


僕は妻にいつも「大霊」のことばかり言ってるわけですが。

「大霊や。大霊や。」言いながらですね。

 

なんでも「大霊」で説明しようとするから時々注意されることもあるんですけどね。

それでも
「そもそも大霊以外のものなんて何一つ存在してるわけあらへんやないか!」とか言いながら頑張ったりするわけです。

 


出会いから結婚、そして出産まで、何から何まで「大霊」しかこんなこと出来ないよなあ、、、と思うわけです。


「どこまで完璧やねん。」と。

やっぱり「大霊」というのはどえらい存在でございます。


生まれた赤ちゃんはしみじみと「大霊の子」やと思うわけです。

生命を作れるのは「大霊」だけですから。

 


生まれた当日初めて自分の子を抱いた時、

「生まれてきてくれてありがとう。でもまあ、あっちゅう間や。」

と思いました。

 

「あっちゅう間」というのは地上人生で色々あるかもしれないけど
また霊界に帰ったらあっという間のように感じられるから大丈夫大丈夫。

実り多い地上人生にするべく頑張ってな。という感じです。


実はその日は妻の誕生日でしてね。

つまり赤ちゃんは妻と同じ誕生日に生まれたんです。

 

「えらいもんやなあ。」言いながらですね。

 

奇蹟というか何というか。。。

霊界の演出があったことはピンとくるところだと思います。

出産が近付いていた時にそんな話はしていたんですけどね。

「同じ誕生日になるかも。。。」言いながら。

まさか本当にそうなるとは。

「うちの子は、もうこれ、どないなっとんねん。」と。

 


その日、妻と赤ちゃんを病院に残して帰る時、僕らは抱き合いましてね。

 

妻はしばらく泣いていました。


色々とこみ上げてくるものがあったんだと思います。

妻は苦労してきましたから。


僕は「今ここに大霊があなたを抱いているよ。」と思いました。。。

 

太陽人

 

太陽は元は人であった

 

全ての人の真の姿は太陽を見ればわかる

 

 

本当の自分らしさとは

「○○さんらしくない。」という言い方があります。


例えばAさんがいつになく愚痴や泣き言や不満など何かネガティブなことを言ったりしたら

 

「そんなこと言うのはAさんらしくない。」

 

とか言ってそのネガティブな発言を暗に咎めたりします。


「Aさんらしくない」と言う言い方で

「そんなネガティブなAさんは本当のAさんらしくないよ。」

という意味が込められているわけです。

 


では本当のAさんって誰なのかなって考えますと。


本当のAさんとは地上的な個的な自我意識のAさんではなく、その内部に宿る神性であるAさんのことと思われます。

 

つまり「本当のAさん」とは「大霊」のことを指しているように思います。


「Aさんらしくない」という表現は「大霊らしくない」という意味で解釈することが出来ます。


人はみな「大霊」です。


そこにAさん、Bさん、Cさん、Dさん、というそれぞれの個性はあるかも知れませんが、皆「大霊」の生命を生きる同じ生命です。

 


みんな本当の自分自身である「大霊らしくあろう」として霊的成長を目指して生きていることは、実は誰もが「本当の自分の意識」の中では知っているものと思われます。

 


ちなみに個的な自我であるAさんが「大霊」らしくあろうとして

霊的成長して「大霊」に近付けば近付くほど

つまり個的な自我が薄まれば薄まるほど、

実はAさんは無個性になるのではなく

逆に極めて個性的になるように思います。

 


その個性とは大霊に与えられた使命であり、

そのことも含めて「本当の自分らしさ」があるものと思われます。

 

 

失神状態で生きないよう心がける

いつも心に「大霊」を意識しようと思っていますが
実際には日常の雑事に追われてつい忘れてしまいます。

 

「あっ。今、大霊を思っていなかったな。」

というのがよくあります。

 

「いかんいかん。今は失神していたな。」と。

 

ある意味では仕方のないことだとは思いますが、
なるべくそういう時間を短くするようにしようと思っています。


ちなみに「失神」とは気を失うことです。
「神を失う」と書いて「失神」という言葉になりますが、面白い表現だと思います。

 

神とは「大霊」のことと解すると「大霊」を失うとは、
大生命の「意識」それ自体の存在である「オリジナルな大霊の意識」を失う(意識不明になる)ということになるのかも知れません。

 

神とは意識のことであり、我々が日常使っている「意識」は言わば大霊の所有物でありそもそも「大霊」が管理していて、その主体は「大霊」にある、、、と思います。

 

ですので言ったことや行動したことだけでなく
「思ったことや考えたこと」まで一部の隙もなくその「本家」である「大霊」によって完全に記録され管理されているのだと思います。

 

ほんのわずかでも、ほんの一瞬でも「大霊」から離れて生きることは出来ません。

 

そう思うと自分の低い自我意識を少しでもコントロールして良い状態にしなければと思います。

 

なにせ何から何まで大霊によって「REC」がかかっているわけですから。

 

自分の意識や行動が全部動画で録画されているようなものです。

 

「嫌だな」「面倒だな」とかの
自分の低い自我意識が出てきたら
「いかんいかん。そんなこと思ったらいけない。」とすぐに打ち消します。

 

でもこの打ち消しの作業が面倒くさくなりましてね。

 

より低い自我意識をそれよりはましなやや高い自我意識で打ち消そうとしているだけでは根本解決にはならないのではないかと感じまして。


低い自我意識が出てきて失敗するのは
大霊を見失っている言わば「失神状態」だからだと思います。


それよりは先手をうって
ずっと大霊を意識する「大霊意識」でいられたら
そもそも低い意識は出てこないと思うんですんです。


もちろんそれがなかなか難しいわけですが
ともかく努力は続けていこうと思います。

 

オリジナルな「大霊の意識」

「霊」は「意識」と言い換えることが出来ます。

 

「意識」のオリジナルは「大霊の意識」です。

 

本当に実在しているのは「大霊の意識」であって
地上人が日常で感じている個別の自我意識は「大霊の意識」の付属品・複製品のようなものだと思います。

 

そもそも「意識」とはまず第一に「大霊の意識」がオリジナルな意識としてあって、
それに「追従するように、借用するように、便乗するように、副次的に連動するように、」して
我々の個々の自我意識があるものと思われます。

 

世にはたくさんの人々がいますが
本当は皆同じ「大霊の意識」を使っているわけです。

 

言わば一つの大きなオリジナルな「大霊の意識」を
皆で共用している、あるいは皆で相乗りしているような感じだと思います。


本当は「大霊の意識」を使っているにもかかわらず
肉体を本源として感覚する個的な自我意識には「大霊」の存在が意識されずに、
「意識」とは肉体(脳)が作り出した自分(自我)だけのものと思ってしまっているものと思います。

 

しかし例えばAさん、Bさん、Cさん、Dさん、の意識はそもそものオリジナルは「大霊の意識」であって、究極的に突き詰めるとそれぞれを区別することは出来ません。

 

つまり霊的な次元では自他はないということになると思います。

 

霊界ではテレパシーで話をすると言いますが、
使用している「意識」は皆同じ大霊の意識ですから
テレパシーは出来て当たり前ということになると思います。

 

また霊界では隠し事が出来ないのも同じ理由によるものだと思われます。

憑依によって憑依霊の意識が人に流入してくるのも元々のオリジナルな意識が同じだから可能なのだと思われます。

 

地上(肉体)を去った新米の霊が霊界でその人自身の人生を振り返って人生の細部まで見せられるそうですが、
その人の意識は元々は大霊の意識であって
その人の記憶や人生を細部まで全部貯蔵し管理している「真のその人」と言うべきものは実は「大霊」になるのだと思います。

 

大霊に属するものとは

「大霊に属するもの」という言い方があります。

 

「大霊」に属さないものなんてそもそも存在しませんが、
要は「大霊」に「近い・直接的」な属性のことを表現したものだと思います。

 

「大霊に属するもの」とは「大霊に直属するもの」と言い換えることが出来ます。

あるいは「大霊の別名」のようなものとして捉えることが出来ます。


「大霊に属するもの」と言われてすぐにイメージするのは「愛」です。

 

あるいは「摂理」「法則」であるとか。

 

また「真理」「善」「美」「生命」「永遠」「無限」「叡智」「完全」「意識」「霊力」なども「大霊に属するもの」と言っていいと思います。

 

別の言い方をすると
「媒体」を通じて現れるものが「大霊に属するもの」だと思います。

 

あるいは「媒体」を通して現れるその内容が「大霊に属するもの」です。

 

特徴としては永遠に滅ばないもの。というイメージです。


一方で「大霊に属さないもの」を考えますと。

 

「大霊」に属さない(直属しない)ものとは大霊を顕現する為の
「媒体」的なものとして定義する事が出来ます。

 

「媒体」は「大霊」を顕現させる為の通路であり、
「媒体」がないと「大霊」が自身を表せないので
「媒体」の存在もまた重要です。

 

例としては「肉体」「物体」「姿形」「物質」などです。

 

「媒体」の特徴としては「地」に属していて、時間とともに滅びゆくもの、永続しない消え去るもの。というイメージです。


消え去るものか、永続するものか。


この両者の区別が常時出来るように自身を鍛えようと思います。

 

目の前にある現実にどちらを見いだし、
どちらを優先するかで地上人生へ影響も大きいものがあるように思います。

 

自己顕示欲は良くないことなのか

自己顕示欲というとあまり良くないイメージで語られることがあります。
それは醜い心の現れであると。

 

この場合の「自己」とは、
肉体の自分を自分の本源と思っている「自我意識」のことと捉えることが出来ます。

 

しかしここでの「自己」を本当の自分である「大霊」として捉えると
自己顕示欲とは「大霊顕示欲」あるいは「大霊顕現衝動」と言い換えることが出来ます。


そもそも人には意識の深いところで

 

「大霊を顕現させたい、大霊の通路となりたい」

 

という霊的な本能、霊的な衝動があり
それがオリジナルなものとして存在しているのではないかと思います。


「大霊を顕現したい」という霊的な本能はそれはそれで純粋なもののはずですが、しかしその本能を大霊ではなく肉体的な「自我」を表現したいという肉的本能として(言わば)大きくねじれて捉えてしまうところに問題があるのかもしれません。

 

つまり「自己顕示欲」のベースには「大霊」を顕現したいという霊的に崇高な霊的欲求がオリジナルなものとして潜在している、と考えることが出来ます。

 

「大霊」を表現することは良いことだと思います。

 

それは「大霊」の通路となり道具となり
その愛を表現する。

そして「大霊」に与えられた個性を表現し、
また「大霊」に与えられた「使命」を表現するのなら
それはそれで本当に素晴らしいことだと思います。

しかし地上的な自我意識によって大きくねじれてしまうところに問題があるように思います。

 


「自己顕示欲」を「なくそう。なくそう」と思っても
その「なくそう」という思いが「自我意識」よるものであってはなくなることはありません。
それはあたかも黒で黒を消そうとするようなものです。


そうではなく「自己顕示欲」というものの「オリジナル」はそもそも良いものであると捉えて、
「自我意識」ではなく本当の自分は内部にある大霊だと意識する「大霊意識」でいることを常日頃に心がけることで問題の真犯人である「自我」は次第に薄れていくように思います。

 

童話の世界を生きる

幼児のような子供が好む世界、
童話やディズニーアニメのような

子供アニメ的な世界の方が
よりリアルで現実的な世界です。


人間が犬や猫やネズミ、虫や小鳥、妖精や天使と話をし、
また花や木や山や太陽と楽しく歌を歌っている世界
の方がより「現実的」です。

 

地上的にはそういう童話的な世界は
「非現実的」とされています。

 

一般的な世の大半の人は
まさかそんな童話的な世界の方が
より「現実的」な世界とは考えないと思います。

一笑に付すだろうと思います。


しかし霊的には…、、、
言わずもがなでございます。

 

この地上の世界も霊界の一部です。

 

童話の世界のような
ルリリリランランルリリララ♪」的な世界の方が
より「現実的」なリアリティーある広い広大な世界です。


逆にドロドロギスギスとした重苦しい地上的現実の世界は
むしろ「非現実的」な狭い狭い虚妄の世界です。

 

どちらの世界に「現実性」を見出して生きるべきかは明らかではないでしょうか。


2~3歳児のような天真爛漫な明るさ無邪気さウキウキ感と同じ感覚で生きることを目標に日常を生きてみようと思います。


リアルな童話の世界に生きることで
霊的な学びも深まるように思います。