スピリチュアリズムでおはようSUN

シルバーバーチの志を学んでいます

上手な法話とは

お寺などでお坊さんが人々に仏教の話をすることを法話といいます。

 

落語の起源はお寺などでの人々への法話だったと聞いたことがありますが、
法話が上手なお坊さんの話の特徴は話そのものが「面白い」というところだと思います。

 

日常の身近な話題を用いながら、話がおもしろ可笑しく進行していきます。

当然聞いている方も話の面白さに引き込まれて、楽しみながらその法話を聞くことが出来ます。

 

法話が上手なお坊さんは、そんな面白い話を進めながら要所要所で仏法の教えのポイントを話の中で入れていきます。

 

そうすることでその法話を聞く人は、面白い話を聞きながら楽しみつつ仏教の勉強をすることが出来るわけです。

 

しかし、一方であまり法話が上手くないお坊さんの法話は、やたら難しい難解な用語を振り回したりして聞いていて眠くなるだけで心に少しも入ってくるものがありません。


つまり下手な法話というのは、その内容が無味乾燥で面白くないことを意味します。

 


法話というと仏教のイメージが強いですが、
要は霊的真理を伝える為の話と捉えることが出来ると思います。


霊的真理をどのように伝えるかは伝道に関する非常に重要な問題だと思います。

 

なるべく身近で日常的な具体例を使いながら
おもしろ可笑しい話の中に霊的真理のポイントを入れていくと良いと思います。

聞いている人も聞きやすし理解も促進されると思います。


間違っても難しい話の内容をそのまま難しく伝えてはいけないと思います。

 

法話が下手な人というのは難しい仏教の概念をそのまま難しく伝えてしまったりして、聞いている人は「難しい」という印象しか残らず、ただ眠くなるだけになるのだと思います。


難しい内容を難しく伝えるというのは、例えて言うと数学の公式をそのまま公式だけを伝えているということになると思います。


「公式Aは公式Aです」「公式Bは公式Bです」とただ羅列しているだけで、やたら上から目線で「理解できないのはあなた方がバカだからだ、勉強不足だからだ」と言わんばかりです。


難しい内容をそのまま難しく伝える人は、実は話が下手なのではなく
その難しい内容を本当は理解できていないことを意味する。。。と学んでいます。


話の内容が理解の難しい霊的な事柄であっても、それを解りやすく噛み砕いて、一般の人にも受け入れやすいように日常の身近な具体例を用いて伝える努力が必要なのだと思います。

 

それは本当にその霊的真理を理解出来ていないと出来ないことです。

 

どれだけ解りやすく伝えるかというのはその霊的真理をどれだけ理解出来ているかを知る指標となるように思います。

 

霊的なことを否定しているような唯物論的な人にも、心に何か引っかかる「種」を残せるような語り方を考える努力が大事なのだと思います。

 

例えばシルバーバーチの霊訓を伝えるにしても、いきなりシルバーバーチというのはややハードルが高いので、その核になる本質を保持したまま何か身近な事例を用いて上手く伝える方法を考えても良いように思います。


霊的真理を受け入れる「時期」というのは人によって様々であると思いますが、まいた種がいつか芽を出し活動を開始しやすいように種の状態を良くする努力をしつつ、心を込めて種まきする必要があると思います。

 

 

 

 

人生の大きな流れ

いつの頃からか、人生には大きな流れがあってその流れに添うようにして人生が展開していくように感じています。

 

この大きな流れは大きな霊的な力によって支配されていて
その流れに乗っている舟の船頭さんが自分です。
船頭さんといっても盲目の船頭さんです。

 

目の見えない船頭である自分が大きな人生の流れに流されながらも
舟の舵取りをしているようなイメージです。

 


この大きな「流れ」の存在に気が付いたのはいつだったか具体的にはよく思い出せないのですが、
いつの頃からか「流れ」の存在を感じながら、こちらとしても「流れに添うように動く」ことを意識するようになりました。


人生を川下りに例えると、川の源流近くの急な渓流では川の流れは激しいものです。

 

岩にぶつかったり滝に落ちたりしながら舟は流れに翻弄されることと思います。
そんな時、船頭は必死に舟をコントロールしようとしますが
自然の力には適わず流れに呑まれながら自分の無力さを思い知ります。

 

流れに呑まれ痛い思いをしながらも盲目の船頭は「流れ」とは何かを学びます。
そして流れに上手く添うことが舟を上手くコントロールするコツであることを学びます。

 

自分の力を頼み強引に自分の思うように舟をコントロールしようとしても流れに逆らっていては上手くいきません。
無駄な力を使って疲れるだけでなく「流れ」を読み切れずに大岩にぶつかって痛い目にあいます。


何度も痛い目にあいながら盲目の船頭は舟を自分の人力でコントロールすることを止めて、手を川の中に入れ全ての感覚を使って「流れ」を読み「流れ」に乗ることに集中するようになります。

 

「流れ」を読むと言っても必ず上手く読めるわけではありません。
その時々の船頭のレベルに相応した形で上手く読めることもあれば読み間違うこともあります。
ただ読み間違うといっても初めの頃のように大きく間違って重傷を負うということはないと思います。

 

また「流れ」に乗るといっても船頭は流されるがまま何もしないわけではありません。
何もしなければそれはそれで岩にぶつかったりして痛い目にあいます。

「流れ」の存在を知りながら何もしないということは、
それはそれで「流れ」に逆らっていることと同じことになると思います。


「流れ」が大きく右に曲がりつつある時はこちらも右に舵をきります。
またしばらくして「流れ」が大きく左に曲がりつつあればこちらも左に舵をとります。

その判断は「流れ」そのものの動きとほぼ同時であることが理想的だと思います。早すぎず遅すぎず「流れ」の動きにベストのタイミングでこちらも行動します。

 

こんな感じで船頭は「流れ」に添うように舟をコントロールすると上手く進めることを学ぶのです。

盲目の船頭が川に手を入れ全身の感覚を総動員して「流れ」の動きを読むという例えは、
自分の守護霊・背後霊が指し示す方向性を直観で読むことをイメージしました。
阿吽の呼吸で動くべき時に動き、「流れ」に添いながら「流れ」そのものとなる感じです。

 

背後霊の導きに全幅の信頼を寄せて身をゆだねつつ、
自らもそれら霊的存在の働きに協力協同して共に進んでいくわけです。


「流れ」の動きを感じてその動きに即応して舵を切るわけですが
その時点では「何故こちらに舵を切ったのかよく解らない」と一瞬不安に思うことはあるかもしれません。


その時点では何のことかよく解らなくても長い目でみると辻褄があって
「やっぱりあの時の判断は正しかったのだなあ」と思う時がくるのだろうと思います。

 

守護霊・背後霊のサポートがあると言っても船頭はあくまでも自分です。

日常の努力を怠らず、自分の感覚に自信を持って「流れ」を判断し、

自分の責任で舵を切ります。
そうすることで守護霊・背後霊との結束は強まり
人生の「流れ」はより進歩する方向へ大きく流れていくのだろうと思います。


こうして舟は大河へ到り自分の勤めを果たして
やがて大海へ帰っていくのだと思います。

 

問いの原点

人間は霊的存在であり肉体の死後も霊としてそのまま行き続けるという霊的真理によって「死」の問題は解決したかもしれませんが、
なお手つかずの問題が残っていることを忘れないようにしたいと思います。

 

それが「問いの原点」とも言うべき「存在」そのものに対する根本的な疑問です。

 

「霊界が存在しているにせよ、なぜその「存在」が存在しているのか?」
「神が存在するとしても、そもそもなぜそれが存在しているのか?」
「神が全ての存在を創造したとしても、何故なのか?」
「霊的成長が霊的存在の目的というが、そもそもなぜそのように創られているのか?」
「全存在は神そのものというが、そもそも神を創ったものはいるのか?」

 

こうした問題は霊的視野に立っても解らない問題のように思われます。

 

シルバーバーチも「原初のことは解らない」と言っていますので
例え高級霊になっても理解出来ない問題なのかも知れません。

 

またシルバーバーチは霊的なことを地上の(三次元用の)言語で説明することの困難さについて何度も訴えていますので、
高度に霊的な問題は地上に束縛されている地上人には理解することも

地上用の言語で表現することも出来ないのかも知れません。

 

もしかするとこうした「問いの原点」は
いかにも地上的な疑問なのであって、
迷妄の中にいる地上人が地上的な物的視野という迷妄をベースにして
作り出した「考えても仕方のない問題」なのかも知れません。


どんなに優秀な哲学者であれ

こうした「これ以上前に進めなくなる問い」の前ではその周辺であれやこれやとウロウロする他はありません。

 

答えが解らないという意味では「考えても仕方がない問題」であることは間違いないと思いますが、その対処法として忘れてしまっていいものでも無いようにも思います。


ではどうすれば「問いの原点」について解るようになるかを想像しますと、やはり霊的に成長する他ないのかなと思います。

 

霊的に成長し、霊格が上がればその分だけ理解力が増すというのが霊的真理で説かれているところです。


というわけで次のように神様から言われているようにイメージしています。

 

「”問いの原点”の問題について理解したいと思うなら、
霊的に成長しなさい。利他愛の実践に励みなさい。神性の発揮に努めなさい。。。
そしてもしあなたが高級霊になることが出来れば
今よりも少しは解るようになるだろう。。。」

 

低級霊に翻弄されるのも修行のうち

今から10年前、憑依が深刻化していた時期がありました。

低級霊のからかいやイタズラに翻弄されて右往左往していたように思います。

 

メディアが僕に語りかけて僕をおびき寄せようとしていると思いこんでTV局に手紙を書いたり、
文明の利器を使ってはいけないと思ってドアに鍵もかけず歩いて大阪から奈良まで帰ろうとしたり、

トイレに流した大小便が必ず返ってくると思いこんでわざわざ近くの公園やコンビニのトイレに用を足しにいったりして色々と支離滅裂な行動をとったものです。

 

しかし今から考えるとこうした経験も魂の成長のプロセスの一つとして
必要な経験だったように思います。

 

低級霊に翻弄されているという意識は翻弄されているその現場では無いわけですが、
言わば低級霊に翻弄されながらも低級霊に翻弄されるというのはどういうことなのかを学んでいたように思います。


また低級霊の関与するイタズラ・遊び相手といった低次元のことではありますが、霊的存在との交流を実体験を通じてその法則性を学んでいたと捉えることも出来ます。


その頃は霊的な存在を感じながらも何がどうなっているのか解らず暗中模索のような状態です。

 

例えると「水」を知らないような人が目隠しされた状態でいきなり海の真ん中へ放り込まれたようなものです。

一体何がどうなっているのか溺れそうになりながらも

頭を打っては修正し、また頭を打っては修正するという過程の中で
徐々に自分の置かれた状況を理解しはじめ、
手探りしながら右往左往する中で
そこに存在する何らかの内的(霊的)な「規則性」に見当をつけていくような感じです。


とても感覚的なことではありますが、僕にとっての霊的な存在との交わりとはどのようなものかを潜在意識と顕在意識の中間くらいの内的な感覚で身体で学んでいたように思います。

霊界からの影響をどのように感じ取るかの学びになっていたように思います。

 

それが結果的に霊的なことを捉える基礎となり
霊的な理解力や考えたりする力となっているようにも思います。


学んでいると言っても憑依が深刻化している当時は
当然「自分は今学んでいるんだ」という意識は無かったわけではありますが。。。

 

憑依や霊障で低級霊に翻弄されている状態も決して悪い事ばかりではなく、多くを学び、多くを自分の力にするチャンスとして肯定的に捉えることも出来るように思います。


実を言うと僕自身は今でもまだまだ低級霊的要素の多い人間で、
今も低級霊に翻弄されていると感じることもしばしばです。

 

ただ10年前のように憑依が深刻化する事はないと自分では思っていますが
理想としては自分の中の低級霊的要素を克服しながら、

低級霊とともに霊的成長していけたらいいなと思っています。

苦しんでいる霊


アランカルデックの「天国と地獄」には罪を犯した人間が
死後に自分の罪の大きさを見せつけられ
凄まじい苦しみに喘ぐ霊からの通信があります。

 

殺人などの罪を犯した霊は自分が殺人を犯す現場の光景を何度も見せられるといいます。

そして自分がやってしまった罪の大きさに自分で自分を攻めるそうです。

 

「天国と地獄」にはこんな声をあげて苦しむ霊が出てきます。

「ああ、苦しい。苦しい。なんという暗闇。なんという恐ろしさ。もう耐えられません。ああ、苦しい…。」

まさに地獄の苦しみと表現していいと思います。

 

ただ「地獄」といっても、宗教で説かれるような自分の外部に地獄という世界があるのではなく、

自分の内にある「良心(神的属性)」が作り出す摂理の作用としての
苦しみそのものの霊的状態があるようです。


どんな人にも「良心」があり、この「良心」によって罪(摂理背反)を犯したものは
その罪の大きさに応じたそれ相応の苦しみを引き受けなければならないのだと思います。


このように暗闇の中で苦しんでいる霊は本当に実在していると確信しています。

 

というのも僕も僅かながら、こうした苦しみに類似したような
霊的な「苦しみ」を経験したことがあるからです。

 

今から10年前に憑依が深刻化していた時に
こうした霊的な「苦しみ」を感じたことがあります。

 

アランカルデックを学んだときに自分かかつて感じた苦しみと
苦しんでいる霊が訴えているような苦しみとよく似ているので
「これはおそらく本当だろう」と確信しました。

 


憑依が深刻化していた時に僕が感じた苦しみは、
暗黒の中で閉じこめられ窒息するような最悪の気分の中で、胸の奥が物凄い力で締め付けれ、心の奥の何かが万力でギリギリとねじ切られるような苦しみです。

 

「心が痛い」という表現がありますが、肉体的な痛みではないものの
肉体的な痛みに類似するような心の奥の何かが痛んでいる最大級のもの…。
とイメージしていただけたらと思います。

 

この時感じた苦しみは本当に凄まじいもので今でも鮮明に覚えています。
苦しみのあまり床をかきむしり、のたうち回りました。

 

「この世にこんな苦しみがあるのか!」

というような苦しみでした。


今から考えると、この時感じていた苦しみは僕が感じていた苦しみであると同時に憑依霊が感じていた苦しみでもあるようにも思います。

 

肉体のある地上人は霊的感覚がその肉体の鈍重さの為に相当鈍くなっている状態なので、霊的なものを感覚することが困難であると学んでいます。

 

僕が感じた霊的な苦しみは僕に肉体があるおかげで相当鈍くなっていると思います。

 

ということはむき出しの霊的存在になっている
憑依霊が感じていた苦しみは僕が感じていた苦しみの何十倍何百倍になるのかも知れません。

 

例えて言うと僕は肉体があるおかげで
いわば防火服を着込んで火炎の中に入っているようなものに対し、
憑依霊はむき出しの素っ裸で火炎の中に入っているようなものだと思います。

 

想像するだけで本当に恐ろしい苦しみです。

しかしその苦しみも自分のカルマによるものなので仕方がないことです。

 


この時の経験から僕は霊界で苦しんでいる霊は本当に実在すると確信しています。
そしてその苦しみが想像を絶するものであることも。。。

 

「悪いことをすれば自分に返ってくる」とはまさにその通りだと思います。

どんなに極悪人でも、もし将来待ち受ける霊的な苦しみの凄まじさを知っていたら、
良心の声を抹殺するような罪作りな事はしないかもしれません。

 


無差別殺傷事件など何か悲惨な事件がある度に加害者の霊的な未来について重い気持ちになります。



ちょうど一年前に障害者施設に押し入り、無差別的にたくさんの障害者を殺傷した事件がありました。

本当に恐ろしい事件です。

 

こうした事件では被害者もさることながら、事件の加害者にも祈りが必要ではないかと思います。

 

世の大半の人は霊的な実相に慣れていないので
加害者に対する復讐心ばかりを駆り立ててしまい

加害者への「死刑」を望むのかも知れません。

 

しかし霊的には、これから大変なのはむしろ加害者の方のように思います。

そのカルマの巨大さに想像するだけで気が重くなります。

 

もちろん霊的な真相が実際はどうなっているのかは解りません。

 すべてを大霊にゆだね深く祈りたいと思います。

 

大霊への祈りの中で、祈りは被害者のみならず、加害者の為にも祈ることも忘れてはいけないように思います。

 

「罰は罪それ自体の中に内在している」とする霊的真理があります

おそらく本当だろうと確信します。

 

霊的な世界で遭遇する苦しみは想像を絶するものだと思います。

神の摂理は完全です。

加害者は間違いなく「神の存在」とその摂理の完全さを
完膚無きまでに思い知らされることと確信します。

 

 

 

 

難しい修行をしている人

知的な障害や身体に障害のある人を見ると思うことがあります。

「難しい修行をしている人」と。

 

僕は以前医薬品の配送の仕事をしていたことがあります。
大きな大学病院に医薬品を納めるため病院の奥の方まで
台車を押して入っていくわけですが、
その時に見た光景が忘れられません。

 

その病室には重度の心身の障害で、ベットに仰向けに寝たままの状態で管に繋がれ
ずっと天井を見つめている患者さんがいました。

 

どのような難病かは解りませんが、意識があるのかないのか解らないような状態だと思います。

手や足や、顔や頭も変形して動くことが出来ないように見えました。

 

年齢は15~20歳くらいで、おそらく生まれてからずっとそのような状態なのだろうと思われました。
そしてこの先もずっとそのような状態なのだろうと。。。

 

その当時、その患者さんを見た時は見てはいけないものを見てしまったような気がして重い気持ちになりました。

 

「あの人は何故生きているのだろう?
何のために生まれてきたのだろう?」

と思ったことを覚えています。

 

今でもあの時の病室の患者さんがどうしているのか考えたりします。

今でも生きておられるのだろうか?
既に亡くなって霊界で幸せにしておられるのだろうか?と。

 

霊的真理を学んだ今ではあの患者さんのように障害とともに生きている方は
霊的に「難しい修行」をしているのだろうと思うようになりました。


(「障害」や「患者」という言い方が正しいかどうかは解りませんが
ここではとりあえずそう表現します)

 

霊界通信を学びますと、障害のある身体に宿る霊魂は
過去生のカルマ精算の為にそうなる場合と
高級霊があえて難しい修行を選択してそうなる場合があるようです。

 

いずれにしても障害のある身体を自ら選び
その苦難とともに生きることで霊的な成長を
神に納める為にそのような人生があるのだろうと思います。

 

そんな人にとっては生きることそのことが
たいへんな難行苦行です。


比叡山大峰山の1000日回峰行など
宗教的な難行苦行とはまた違うかもしれません。

 

しかし難行苦行と言う意味では
そのように難しい修行をしている障害のある方の人生はそれ自体が
宗教的な難行苦行よりも遙かに過酷で、しかも霊的価値の高い難しい修行をしているように思います。


障害の霊的原因がその人の過去生の「カルマ」にあるかどうかは解りません。
しかしもしそうだったにせよ難しい修行であることには変わりません。


人は誰しも間違いを犯すものです。

間違いから多くを学んで向上するのですから、過去の間違い(カルマ)を本人でもない他人が裁くことは厳に慎まなければなりません。

なので障害者はカルマのある罪人なので差別してよい、とする考え方も間違っています。


障害のない健常者は難しい修行をしている人を出来る限り
サポートしなければならないのだと思います。


霊的成長はその人個人の問題だけではなく広く人類全体の霊的共同体の向上にも関連連動していると考える事が出来ます。

障害者はその苦しみを通じて人類全体の霊的向上のためにその身を犠牲にして霊的な「仕事」をしてくれている、と考える事が出来ます。


健常者としては、障害者の難しい修行が無事に成就されるようにサポートすることが

なすべき霊的な「仕事」になるのだと思います。

 


地上的な視野では障害を「不幸」「不条理」「不平等」「不公平」などと捉えがちです。

 


残念なことですが「障害者は不幸しか作り出さない」とする考え方があります。

障害者施設を襲った無差別殺人犯のように、
物的な価値観をとことんまで突き詰めるとそんな発想になってしまうのかもしれません。
こうした問題も「霊こそ実在」という霊的真理を前提にしないと
答えが出ないように思います。

 


地上的な物的視野では障害はネガティブなものとして
そう見えるのかも知れませんが、
霊的視野で見ると障害者は広く人類(霊的共同体)の為に
そのような霊的な仕事をしてくれている存在と考えることが出来ると思います。


神が間違ったからその障害があるのではなく
神が間違わなかったからその障害があるのだと思います。

 

まさに「不幸」「不条理」「不公平」「不平等」が存在しない証拠として
その「障害がある」のだと思います。

 

障害は不幸ではなく神の愛の証明になると思います。


そしてその障害に感謝しながら神と共に生きることが
その人が納めるべき神から与えられた「仕事」なのだろうと思います。

例え殺される未来が待っていたとしても…

修験道に次のような信仰があります。

 

「苦しい厳しい修行を行うことにより、自分がなしてしまった過去の罪業が消滅し心身が浄化される」

 

というものです。

 

この信仰を霊的真理に照らし合わせて考えますと、

霊的には間違った信仰と言わざるを得ません。

 

 

「自分がまいた種は自分で刈り取る。よい事も悪い事も。」

 

というのが霊的真理だと思います。

 

良い種をまけば良い結果が現れ、悪い種をまけば悪い結果が現れる。

これが神の厳然たる摂理であり、神の愛であると思います。

 

 

自分がなした悪いこと(カルマ・摂理背反)が、苦行によって、つまり人為的・意図的に作り出した「苦しみ」によって振り替えられて「消滅する」なんてことは有り得ないと思います。

 

自分がやってしまった「カルマ・摂理背反」は自分で責任を取るのが神の愛であり

その罪を「勘弁してもらう」「別のものに振り替えてもらう」のが神の愛ではありません。

 

神の公正は完全です。

 

神の摂理は人間の想像を絶するほどに天文学的に正確無比であり、

巨大な宇宙のどこを探しても、また霊界のどこを探しても

一分の隙もないほど完璧であると信じます。

 

自分がなした「カルマ・摂理背反」は自分で刈り取るほうが

喜ばしいことであり、祝うべき慶事なのだと思います。

 

しかし実際にカルマを自分で刈り取っている現場では

「苦しみ・悲しみ・不幸・不条理」

がやってきたかのように地上的な視野では感じられたり見えたりするので

つい混乱が生じるように思います。

 

 

少し極端かもしれませんが解かりやすい例を用いますと。。。

 

もし自分の過去生で人を殺しているカルマがあるとしたら

今生でそのカルマを刈り取るのが、つまり「殺人の被害に会って殺され返す」のが

神の公正であり、喜ばしいことであり「神の愛」なのだと思います。

 

もし自分が将来そのようにして「殺され返す」運命が待っていたとしても

神に全てをお任せし、「それならそれでどうぞよろしくお願いします」と

その「殺され返す」ことを自ら進んで望むように願い出るように神に祈ることが

神への正しい祈りのあり方ではないか。。と思います。

(もちろん自分の霊的履歴は知りえないことではありますが、だからこそ神への信頼が試されるのだと思います)

 

 

修行苦行の目的は神の完全にどこまでも身を委ねた

覚悟を決めた不動心を培うことが目的のようにも思います

 

「何が起ころうとも…、例え自分に殺されるという運命が待っていても、

どうぞ来るなら来て下さい。ありがたく受け入れます。それが霊的成長にとって必要だと確信します。私は神を疑いません。その完全さを、その叡智を、その愛を疑いません。」

修行を通じてこんな感じの覚悟が決まると良いように思います。

 

 

地上的な一般常識で言うと「殺されること」は不幸以外の何物でもありません。

しかし霊的視野では「不幸」はある意味では有り得ないのだと思います。

 

こうした理解に達すれば、その「心のありよう」において

それまでの「不幸・不条理」の捉え方の状態が変化・変容した結果、

「かつての不幸の感じ方・不条理の捉え方」が消滅すると解釈(表現)することも出来るのかもしれません。

 

 

霊的真理を学ぶと

苦しみを「不幸・不条理」と捉えるのではなく、

むしろ「神の公正・神の愛」の証明と捉えてこれに感謝することが出来ると思います。

 

 苦しみの感じ方が変容すると思います。

 

そして結果的に苦しみの感じ方が軽減されるように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

H係長のこと

僕はダム管理の仕事をしているんですが、管理は公的な機関がやっていましてね。
職員さんは公務員です。

うちの会社はそれを支援する業者になります。

 

山奥での勤務で普段はのどかなものです。

職員さんの一人にH係長という方がおられましてね。
結構キャラが濃い方なんです。

 

容姿は芸人さんの芋洗坂係長によく似た感じで
どっしりと大きな身体をされてましてね。
小さなことにはこだわらない大らかな性格の方です。

 

大らかな性格と言ってもいいように表現するとそうなりますが、
別の言い方をすれば「だらしがない」とも言えるわけでしてね。

 

いつも無精ひげをはやしておられ、
裾がやぶれた仕事用のズボンを履いておられましてね。
かなり寒い時期でもTシャツ一枚です。
そのTシャツもいつ頃から使っているのか解りませんが
洗いすぎで生地が薄くなりすぎているようで
パッと見ると乳首が透けて見えてるんです。


言ってはいけないことですが、周りからは
「頭の中も裸の大将」なんて陰口を言われています。

でもH係長は一向に気にしないご様子です。

 

僕が特に気になっているのはH係長の机の上でしてね。
書類などを無造作にグチャグチャに積み上げてあるんです。

机の上をこんな錯乱した状態にしていたら
出来る仕事も出来なくなるのではないか?とつい思ってしまうほどです。

 

だらしのない状態は霊的にもマイナスがマイナスを呼ぶような

すごく良くない状態だと思います。。。

 

整理しはったらいいのにな…。。
といつも思うのですがそんな直言することも出来ず
なんとかならないものかと気をもんでいたんです。


ちょうど一年前の7月末のことですが僕とH係長の二人でダム湖の水上巡視に行きましてね。僕が巡視船の運転をしまして。

 

ダム湖の上流の上限まで行って、さあこれからUターンして帰ろうというときに事故が起こったんです。

水深の浅いところまで行きすぎて、水中に岩がたくさん突きでている処に
入り込みまして。

 

身動き出来ないところを強風で流されて巡視船のスクリューが川底にあたり舵がきかなくなるという事故だったんです。

 

もちろん船長である僕の責任なんですが事故処理に大変な思いをしました。


それから丁度一年経ちまして、今年の7月末にまたH係長と二人で水上巡視に行ったんです。

今年は去年のような事故をしてはいけないぞ、と入念に気合いを入れて行きました。
出航前に守護霊にも祈りましてね。

「どうか無事に帰ってこれますように」と。

 

去年の事故から水上巡視の際は事前にどこでUターンするかという視察を事故防止策として行うようになりまして。

 

その視察も責任上、全部僕がやっていたんです。

 

今回も事前視察をやって満を持してH係長と水上巡視にいったんです。

出発してから1時間経ちまして、さあこれからUターンして帰ろうという時です。
実は今回もまたトラブルがありましてね。

 

前進と後進をコントロールするスロットルレバーがおかしくなったんです。
通常はスロットルレバーを前に倒すと前進で、後ろに倒すと後進なんですが、スロットルレバーを前に倒しても何故か「後進」し始めたのです。

 

その時までは普通に運転できていたんですけどね。
今回は何かにぶつかったとかは無い状態でそうなりまして。
わけが解らんわけです。

そのうちスロットルレバー自身が効かなくなりまして、
前進も後進も出来なくなって完全に操船不能の状態になったんです。

 

ちょうどUターンして帰ろうというときのタイミングでして
状況的に一年前とほぼ同じ状態です。

 

「こんなことあるかなあ…。。」
という状態でですね。

 

もう意味が解りませんわな。

 

それから救助を呼んでですね。

 

巡視船は2隻ありますので、もう1隻で他の職員さんと僕の上司がやってきてくれまして。
その船に曳航してもらって帰航したんですけども。

 

今回は巡視船の機械の問題だったんですが
もう格好悪くてですね。

 

2年連続でこういう状況になるなんて
「どないなっとんねん!」

ですわな。

 

操船不能になって救助船を待っている時にH係長としみじみと話をしましてね。

 

「もってますよね。」と。

 

こんな偶然はないだろうというような偶然の事件です。

 

「何たること…。出航前に守護霊にもお祈りしてこの結果とは…。
何か結構重要な霊的原因があるはず。。。」

と思いましてね。

 

もちろん霊的には偶然というものは無いわけですから。

霊的世界の関与は必ずあると思いましたが、
どういう意味があるのかと色々考えました。


「天の意志・霊界の思惑」

といったものはどんな出来事にもあるわけですが、その霊的解釈は様々に出来るわけで…。

さて。それをどうのように解釈するか。。。

こうしたところに霊的な個性が現れるんだろうなあ。
と思いながら考えたんですけども。

 

一瞬、H係長がマイナスを引き寄せたんじゃないか…?
もしかすると低級霊的世界では実際そういう要素があるのかもしれない…。。。
とも思いましたけども。

 

でも、その解釈はあまりよくない。と思いましてね。

 

他に責任を転換する発想はそれ自体が低級霊的ですのでね。

全部自分に責任はあるはずだと思いなおしまして。

 

では僕はどうするべきだったのだろう?と思いますと。

船の機械の構造を知る努力をしていなかったのが原因かな?
とも思いました。
しかし機械屋でもないし、設備屋の僕としてはややハードルが高いのではないか?とも思いますしね。
ただ今まであまりにも機械の勉強はしていなさすぎだったので努力はしないといけないな…と思いました。

 

それ以外には船の操船については問題なかったはずですし、巡視前の事前視察も行って準備は怠ってないわけです。

 

もしかするとH係長の背後霊が僕になにか言いたいことがあって
現象を起こしたということもありうる…と思いましてね。

 

失礼かもしれませんが、もしかするとH係長には「愛」が足りないのかな?と思いましてね。

H係長は独身で、あまり「愛される」という経験が無いような感じの方でしてね。
慢性的に「愛」が不足しているのかもしれない。と思いまして。

 

H係長の為に「愛」のあるお祈りをしてみようと思ったわけです。

 

祈りは常に神(大霊)にとって良きものです。

 

愛を込めた祈りを通路にして霊界が働きやすくなり
H係長に何らかの変化が現れるかもしれない。と思いましてね。

 

今までH係長のだらしなさに気をもむ事はあっても

それを傍観するだけで自分から何か行動してみるということはありませんでした。

祈りの効果を知っているはずなのに…。。

「これはいかん。」

「ようし。やってみよう。」と思いましてね。

 

その日以来、こっそりとH係長の為にお祈りしているんです。

 

「神よ。H係長というあなたの子が神の愛とともにあり
神として幸せでありますように」
「H係長の守護霊さま背後霊さま、どうかよろしく導いてあげてください。」

 

こんな感じでですね。

もしかしたらH係長の机が整理されて綺麗になるんじゃないか?
だらしのない外見も小綺麗になるんじゃないか?

そして霊界からのサポートがありH係長を愛する人も現れるんじゃないか?と願いながら。。。

 

H係長の親御さんになった気持ちで、親が子を優しくあたたかく見守る気持ちで「愛」を送る祈りをしています。

 

エスは「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言ったそうですが
隣人愛とはこういう些細なことを言うのかな?と思うようになりましてね。

 

祈りには時間と集中力を使いますし、心を整えて

一手間かける必要があります。

 

宗教者に祈祷を依頼すれば謝礼が必要ですが、こちらは見返りはありません。

ただ隣人の幸せを祈るのみです。

こうした祈りはなるほど霊的にすごくいいと思いましてね。

それに気付かせて頂いて、また隣人愛の実践をさせて頂いて
H係長には感謝しないといけないなあと思っています。


もしかすると霊界はこういうことが言いたかったのかな?なんて思ったりもしています。
今回こういう事件が起こらなかったら気が付かなったと思います。


それからなんですが。。。

 

あれから3週間ほどたちましたがH係長には今のところ特に変化はありません。
相変わらず机の上は書類で山盛りのグシャグシャ状態ですし。。。
だらしのない外見も相変わらずです。

 

霊的な世界では何かの変化はあるとは信じたいんですけども。。。

霊界も努力はしてくれているとは思うんですが
現象面でどういう現れがあるかは計り知れないところだと思います。

 

とりあえず経過を観察しながらお祈りは続けたいと思います。

H係長に何らかの変化があってそれに気付くことがありましたら
またブログで報告したいと思います。

 

憑依について8 憑依の予防策

憑依についての最後に憑依の予防策について思うところを書こうと思います。

憑依が何故起こるのか?といった憑依のメカニズムについては

スピリチュアリズム普及会さんのサイトで学ぶことが出来ます。

憑依現象と除霊について

僕は何度も同サイトで学ばせて頂きました。


憑依が何故起きるのかといいますと、
第一に本人の霊的背景・カルマからくる要因によるものであって
僕の理解では徹頭徹尾、本人自身の問題であると思います。

 

憑依の問題は究極的には自分自身の努力で解決するしかないと思います。
自分で努力するのが遠回りしているように見えても
結局は一番早い解決法だと思います。

 

自分自身に克服すべき人間的弱点、欠点、考え方生き方の悪さがあるからその土台に
憑依霊が乗るのであって、むしろ憑依霊は「その弱点を克服しなさいよ」と
間接的に教えてくれているありがたい存在なのだと思います。

 

そして憑依の原因を憑依霊に求めるのではなく、
自分自身にその原因があったことを理解して、自身の生き方考え方を改めて自分の中から自己中心的な発想、自主性のなさ、暗い気分を排除する努力をしつつ、

神に対する絶対的な信頼を確立しなければならないと思います。

 

しかし憑依があった場合、(それに気付くことが出来たにしても)憑依されている人は自分を憑依霊の被害者だと思ってしまうかも知れません。

 

つい憑依霊などの悪霊が理不尽に「悪さ」「意地悪」をしているから
憑依や霊障が起こってるのだと勘違いしてしまう人もいるのかも知れません。

しかしその視点こそが問題です。

他にその責任を求めてしまう感性そのものが霊的無知からくるもので
低級霊の影響力をむしろ助長させてしまう発想であると思います。
おそらく「その発想は間違ってますよ!」という学びのゲンコツがふりそそがれる、という結果になると思います。

叩きのめされないと人間はなかなか気がつかないものだからです。

 

ニュースとかでよく聞く話は、
こうした憑依や霊障を解決しようとして、
力のある(?)霊能者を訪ね歩き
いかがわしい霊能者に依頼して憑いている霊を払う為の
法外な祈祷代を支払いトラブルになるというケースです。

 

こうした問題でいつも思うことがあります。

法外な報酬を要求する(解りやすい)いかがわしい霊能者が
通じている霊的世界は霊は霊でも低級霊の世界だということです。


いかがわしい霊能者にも霊能はあるのかもしれませんが
おそらく低級霊系のそれであり、ほとんど霊的価値はないようなものだと想像します。


そういう怪しい霊能者自身が「低級霊的」である要素が大きいし、またそういう人にすがってしまう依頼者も「低級霊的」なのだと思います。


そして怪しい霊能者と依頼者の双方に低級霊が憑いているという低級霊団が霊的親和性で寄せ集まり、田舎芝居的なことをしているのではないかと想像します。

 

霊的なことには低級霊的なものと高級霊的なものと
大きく分けて二つの霊的世界からの視点があると思います。


一番やってはいけないのは低級霊にピントを合わせてしまうというそれです。

よくある話で「先祖の祟り」があるので供養しなければならないとか
「怨霊が怒っている」ので謝ってご機嫌をとらなければならないとか
力のある霊能者に悪霊を払ってもらわなければならないとかの
低級霊的な話を聞きますが、そういう話は「低級霊的」であるというその時点で全て無視して良いと思います。


そもそも怨霊やオドロオドロしい地縛霊・未成仏霊といった低級霊の世界にあまり意識のピントを合わせるべきではないと考えます。

 

心のベクトル(矢印)は常に神(大霊)に向けておかなければなりません。

それが低級霊に対する最大の防御法だと思います。

 

しかし霊は霊でも低級霊の世界に心のベクトルを向けてしまうと
実際にその世界に自ら入ってしまうことになるので注意が必要です。


低級霊の世界は低級霊の世界であるにはあると思いますが
無限に広がる果てしない世界であって、
泥沼に自ら入る愚を犯すべきではありません。


低級霊の世界はどうでもいいものとして、
最初から興味を持つべきではないものとして
切り捨ててしまってもいいのではないか?と考えています。


その意味で唯物論的な人が「霊なんかいない」と
霊的なものを切り捨てる態度にはある意味では一理あると思います。

 

低級霊的なことに中途半端に興味をもつくらいなら、
「そんなものは存在しない。」として切り捨ててしまうのも
賢い態度のようにも思います。

 

しかしこうした態度の間違いは低級霊的なものと一緒に
高級霊的なものまで切り捨ててしまうことです。

 

とはいうものの何をもって高級霊と低級霊を区別するのか、
その判別の問題があると思います。

また「神(大霊)」とは何かという神の理解が
その人の霊性に合ったかたちで各人各様であるという問題があると思います。

 

心のベクトルを神に向けると言っても、その「神」の理解が(あえていうなら)低ければ、残念ながら低級霊の世界に通じてしまうからです。

 

霊的真理などの霊的な事柄に慣れていない場合は
その価値観が「この世的・地上的」なので
低級霊的なことを高級霊的なこととしてアベコベに受け入れてしまいがちだと思います。
同様に高級霊的なことをつまらないこと、取るに足らないこととして
逆に捉えてしまうのでその結果、その内容がいかにも低級霊的な様々なトラブルが起こるのだろうと思います。


どのように低級霊と高級霊を区別するかは
霊的真理を真摯に勉強する他はありません。

なるべく高級霊的な視点が出来るように、霊的真理の知識を増やす努力をしなければなりません。


霊的知識を積極的に吸収して知識を増やして霊的な理解力を高め、
日常生活では利他愛の実践を通じて意識を高く保ち
心のベクトルは常に「神」に向けながら
明るく楽しくウキウキとした気分で生きることが大切だと思います。

こうしたことが同時に憑依など低級霊に対する防衛策になると思います。


心のベクトルを常に「神」に向けるのです。

「神」への絶対的な確信、信頼があれば恐怖心や不安、取り越し苦労をすることはありません。

 

常に「神」と共にある幸せを噛みしめながら
明るく楽しく心ウキウキと生きることができれば
低級霊系のことなどは全くどうでもよいものとして
意識にも入ってこなくなると思います。

 

まさに低級霊の入り込む隙が無くなることで
結果的にその予防策になるように思います。

 

憑依について7 憑依霊に感謝

霊的な世界の実在を確信した10年前のこの頃は
憑依現象を体験し、不思議な出来事がよく起こっていたように思います。

 

しかしその頃の僕は

「そういう不思議な世界というのはあるんだなあ…。。」

 

という何となくの理解に止まり、それ以上の興味を持つこともなく
やがて普通の日常に戻っていきました。


時間が経つにつれ精神的にも安定し、この時の体験も
過去の思い出になっていきました。


しかしそんな普通の日常を送りながらも
この時の憑依体験のことは心のどこかで覚えていて

「あれは一体なんだったんだろう?」と

時々思い出すこともありました。

 


テレビで心霊番組などをやっているのを見ては
「そういえばあの憑依霊は一体どうなっているのかなあ?」
と思い出したり、


また恐ろしい無差別的な殺傷事件のニュースを見ては
「おそらく憑依現象だろう…。」
「でもどうすれば防げたのだろう?」
と思ったりすることもありました。

 


おりにふれ時々思い出すことはあるものの、積極的に自分から
霊的なことを勉強してみようとは思うこともなく
霊現象を体験してから約8年が過ぎました。


そんな中、ネットで霊的な情報を得ているうちに
知らず知らずのうちに霊的な知識が増えていきました。


知識が増えると面白く感じるもので、
もっと知りたいという思いが出てきて、
ネットだけでなく書籍でも霊的なものを読むようになり
ついに修験道の寺で修行をするようになりました。


その寺というのは、家に縁のあるお寺で
行場が整備されていて家から近く、また不思議な出来事があった寺です。

憑依があった時にアルバイトをしていたのはこの寺のことです。


憑依現象がよく起こっていた当時、
憑依以外にも印象に残っているような不思議な出来事があったことを思いだし、
いてもたってもいられず

 

「今こそ約束を果たすべき時」

と決意して「行」をはじめたのでした。

 

「行」は今でも続けていますが今はかなり
落ち着いた感じになっています。

 

「行」をやり始めた当時は
鉄の意志で決死の覚悟をしていました。
「必ずやり遂げる」と。


自分で決めた「行」を約1年かけてやり遂げまして
生涯の思い出に残るような体験ができて、
やってみて本当に良かったと思っています。

 

「行」をやり遂げた時は本当に感動しました。

 

またその後、スピリチュアリズムの崇高さに感動し、
その道を歩もうと思うことになりましたが、そのキッカケになったのもあの時の憑依体験でした。


そう思うと、あの時の憑依霊には感謝しています。


僕の身体をコントロールした憑依霊が今はどうしているのか
よく解りませんが、あの憑依霊は何らかの霊的な「仕事」を
してくれたのだろうと今では思っています。


おかげで霊的な世界に視界が開かれましたし、
何より霊的真理を学びながら神とともに生きる
霊的人生を歩むキッカケになりました。


こんなに幸せなことはありません。

憑依による苦しみは「神(大霊)」に通じていたのです。

 

否、憑依だけでなく全ての苦しみは神に通じているように思います。


「人生とは苦しみへの感謝」
とはシルバーバーチの言葉です。


苦しんでいる最中はとてもそんな余裕はありませんでしたが
今から考えてみますと色々と思うことがあります。

 


「苦しみ」はどこから来るのか?

考えを突き詰めていくと究極的には
やはり「神」から来るのだろうと思います。

 

「苦しみ」の源泉は「神」であり、
その本質は「神の愛」であると思います。

 


「苦しみ」とは「神の愛」がそのように変換されて
そのような(苦しみという)「感じ方」になっているもの。。。

というふうに今ではイメージしています。


何故そのような「変換」が起きるのか?


その責任は自分自身の霊的背景にあり、
やはりカルマが関係しているのだろうと思います。

 

自分で蒔いた種は自分で刈り取る。それが神の愛だと。


苦しんでいる最中は確かに大変ですが
結果的にそれで霊的に目覚めることが出来るのなら
また霊的に成長できるのなら、
そして何より神に向かって生きていく道が開けるのなら
やはり霊的にはそちらの方が幸せなのだと思います。


「苦しみは神(真理)への扉」

だったのだと思います。

 

(憑依について8に続きます)