スピリチュアリズムでおはようSUN

大霊一筋!の「ルリリリランランルリリララ♪」的なブログです。

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「私・我・自分・I」といった「自らの意識」を表現する言語は、本来「大霊」の所有であり「大霊」の「自らの意識」を意味する言葉だ。

「一人称」とは上手い表現で「一人称」の「一人」とは誰かというと「大霊」のことだ。


「自分」とは「大霊」である。という言葉の意味は、そもそも「自分」という言葉は「大霊」を意味する言葉なので、「大霊」とは「大霊」である。という同語反復と同じ意味だ。


しかし一般的には「私・我・自分・I」などの「自らの意識」を表現する言葉は、個人的な人間としての自分、という意味で使われる。

「自分」という言葉が本来はイコール「大霊」を意味するものとは考えない。

人間は「大霊」から「自分」という言葉を盗んで使用しているとも言える。


本来は「大霊」を意味する「自分」を、勝手に「人間としての自分」を意味するものとして使用しているのだから盗みの「罪」を犯しているわけである。

このように本来「大霊」の所有する「大霊」に属するものを、本来の主人を見失って「人間」の所有とアベコベに思い込むことはある種の「大霊」への反逆である。

これを「原罪」と呼ぶのではないか。

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このようにイメージしてみてはどうか。

光輝く自分をイメージする。

 

「霊」とは「光」であり、より純粋な自分とは
「霊」である自分、つまり光輝く自分である。

 

光輝く自分でありたいと願うのは霊として当然の願いというもの。

 

光輝く自分である為には、まずそのようにイメージすることから始めなければならない。

 

地上にも良い見本がある。

「大霊」の象徴とされる「太陽」という見本が。

 

「太陽」を見習って、その光やエネルギーそのものを自分であるとイメージする。

つまり自分を「太陽」とイメージする。

本当の自分とは「太陽」であると。

 

また自分の肉体も「太陽」と全く同じ(大霊の)素材で出来上がっていると。

この手もこの足も、この頭も胴も細胞も、内蔵も心臓も全て「太陽」と同じものであると。

 

光輝いているんだと。

 

無限の生命エネルギーに満ち満ちているんだと。

 

強くイメージする。

自分のことを「太陽」とイメージするのは自由意志である。


霊の世界は想念の世界だ。

イメージしたものが顕れるのである。

 

 

 

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「話中有話」という中国成語がある。

「話の中に話がある」という意味だ。

直接的に言うことを避けて、遠回しに諭したりする時など、表面的な話の内容とは別に、暗に示す「話中有話」で何かを語ったりすることがある。

霊界が地上人に語る語り方も「話中有話」的な方法が用いられる場合があるのではないか。

霊界が語ると言っても使われる言葉は「森羅万象」という言葉である。

「森羅万象」という言葉を使いながらその中で何かが語られる。

言葉(森羅万象)の表面的な意味を追ってしまうと、内在する「話中有話」の内容を見失ってしまうことがある。

しかも「話中有話」の中にもまださらに、「話中有話」がその奥に内在している場合もあるように思われる。

子供が一つ一つの言葉を手探りで学んで行くように、こうした霊界との交流も日常の何気ない森羅万象に気を配りながら手探りで学んでいく他はない。

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41

ほとんどの人は目の前の当たり前の世界を
当たり前のものとして見ている。

深く考えることすらしない。

しかし本当は我々の目の前の当たり前の世界こそが
「大霊」の霊現象によるものである。

これが本当の霊現象だ。

目の前の当たり前の世界こそが最大の不思議であり究極的な神秘なのだ。

目の前の当たり前の世界は単なる当たり前の世界ではない。

「大霊」あるがゆえの目の前の当たり前の世界なのだ。

「大霊」あるがゆえに。
「大霊」あるがゆえに。

何度強調しても強調し足りないくらいだ。

「大霊」あるがゆえの目の前の当たり前の世界なのだ。

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摂理(法則)を歯車に例えてみると。

「与えれば与えられる」などの霊的・利他的な摂理を歯車A、
「奪えば奪われる」などの物的・利己的な摂理を歯車Bとする。


「大霊」は歯車Aの回転に乗って顕現することもあれば
歯車Bの回転に乗って顕現することもある。

どちらの歯車も「大霊」の通路であり、
歯車Aで顕れた「大霊」も歯車「B」で顕れた「大霊」も同じ「大霊」である。

そのどちらの「大霊」も「大霊の愛」の顕現である。

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