スピリチュアリズムでおはようSUN

シルバーバーチの志を学んでいます

憑依について1

僕が霊的な事に関心を持つきっかけとなったことについて語りたいと思います。


今から10年前になります。

 

僕の人生でもっともインパクトの大きかった
霊的な出来事を経験しました。

 

それは憑依という霊現象です。
憑依は自分の霊魂と地縛霊が一体化する現象です。

 

その当時の僕は霊的なことについては
むしろ否定的な思いを持っていました。

 

霊的なことは少なくとも

「自分には関係がないだろう」

と思っていました。

 

一般的によくあるタイプだったように思います。

 

しかし憑依を実際に経験し、霊現象というのは
本当にあるんだとその時初めて確信しました。

 

「これは幻覚とか錯覚ではない」と。
「霊というのはあるんだ」と。

その時初めて納得しました。

 

人間というのは実際に経験して初めて
確信し納得出来るのだと思います。

 


憑依によって現象が現れるパターンは色々あると思いますが
一番印象に残っているのは、
憑依霊が僕の身体をコントロールして
自分ではない他人(憑依霊)が
僕の身体を動かした時です。

 


その奇妙な感覚は
奇妙な奇妙な不思議な感覚です。

 

何とも言えない不思議な不思議な
何とも言えないぬるぬるとした感覚…。。。

 

のように感じたことを覚えています。

 


動いている肉体は自分の肉体ですが
その肉体を動かしている主体が
自分ではなく他人(憑依霊)だったのです。

 


僕は自分の肉体から外に放り出されたような感じで、
その身体をコントロールしているのが
他人(憑依霊)であることが解りました。

 

 

自分の肉体という着ぐるみの中に
入っているのが自分ではなく
他人だった、みたいな感覚です。

 

下半身には力は入っていなくて
憑依が強まった時に崩れ落ちるように
その場にしゃがみこみました。

 

そして匍匐前進するように手が動き出したのです。
何かを掘ろうとしているような動きで、
指を立てて床をかきむしるのでした。

 

その時の気分はただ「悲しみ」と「怒り」の感情だけの存在で、
凄まじい感情でした。
悲しみのために涙が止めどなく溢れました。

 

 

感情、感情、感情。

天地を貫くようなものすごい感情だけの存在です。

 その憑依霊は女性である、ということが直感的に解かりました。

 

僕がおかしいと思ったのは
悲しみや怒りには必ずその理由があるはずですが
その時はその理由が解らなかったのです。

 

もしかしたら憑依霊すらその理由を忘れてしまっている
のかも知れない。。。と今では思っています。

 

「悲しみ」と「怒り」に自分で自分を苦しめている

ような状態だったのかも知れません。

 

この時初めて自分の身に起こっていることが
霊現象であることが解りました。

 

この時初めて自分を悩ましていた心の苦しみ、
精神的に不安定になって妄想からくる苦しみ、
「解らない」ことから来る苦しみの原因が

 

「霊」的な要因によるものだったのだ

と直感的に解りました。

 

その時まで解らなかったのです。
「解らない」ことから来る苦しみの原因が。


話が前後しますが、僕が憑依霊に
身体をのっとられる事件が起こるまで
約一年半ほど精神的に落ち込み
気分が不安定な鬱状態
続いていました。

 

統合失調症の一歩手前のような状態だっと思います。

 

「解らない」ことから来る苦しみと言いますと。

 

自分の身の回りで何かが存在していて
何かシナリオのような計画書があり
何かがシナリオ通りに演出し、こっそりと僕を監視して
何かをしようとしている。という感覚に苦しんでいました。

 

その何かの存在を感じていましたが
それが気のせいなのか
それともその存在に何か意志があってのことなのか
何をしているのかが「解らない」のです。

 

妄想が果てしなくとまらない。。。ような状態です。

 

何か僕だけに秘密にしている
ドッキリカメラのようなことを
その存在がしている
のではないか?と。

 

「何かいるんやけど知らん?」

 

と人に聞いてみたりしました。

自分の周りの人間は
全てこのドッキリカメラの役者を演じている
グルなのだ。と思いこんだりしました。

 

外部から見るとかなり言動がおかしくなっている
状態だったと思います。

(憑依について2に続きます)

霊的な感謝を考える

一人はみんなのために
みんなは一人のために。
という言葉があります。

 

どんな小さな歯車でも
それが噛み合って「仕事」を
することにより
全体が成り立つわけで、

小さな歯車は全体にとって
なくてはならないものです。


人間の一人一人は小さな歯車かもしれませんが
人類全体・霊的同胞全体の目から見ると

決して欠かすことの出来ない重要な
歯車なのだと思います。

 


その歯車はもちろん大霊によって
創造された歯車です。


人間の一人が霊的成長することは
その人自身にとっての霊的価値があるのみならず
広く人類全体・霊的同胞全体の霊的成長に
寄与することと思います。

 

 

その人が成し遂げた霊的成長は
大海に落ちた一滴の水滴のように
人類全体の霊的成長という大海の
水の量をその分だけ
大きく豊かにすることに
貢献しているのだと思います。

 


大海に対して一滴の水は
わずかかも知れませんが
その一滴の価値はとても大きい。

わずかな一滴の中に大霊が嘉納される
霊的な価値があるように思います。

 

大霊は空転する歯車を創らない。

といいますか。。。



大きな視点に立てば(本人に自覚がなくても)全ての人が少しずつ

確実に霊的成長の道を歩んでいます。

 


一人の霊的成長は
全体の霊的成長に貢献している
と思います。

 


小さな一つの歯車がたくさん集まって
みんなで仕事をすることにより
霊的同胞の全体である
巨大な一大連動装置を動かしていく。。。。

 


スピリチュアリズムでは
物的視野ではなく霊的視野で
もの事を見ることが求められます。

 

さらに言うならば霊的視野にも
ざっくり分けると二通りあって、

狭い範囲の個別的な霊的視野と
より広い範囲の全体的な霊的視野があるように
思います。

 

カルマや様々な個別の霊的背景からの
視点が個別的な霊的視野とすると


大霊の望まれた理想の世界
その霊的に成熟完成された広大な視点を
全体的な霊的視野と呼んでいいと思います。


個別的な(狭い範囲の)霊的視野と
全体的な(より広い範囲の)霊的視野の
関係は地球の自転と公転の関係のように
無限に奥行きのある関係のように思います。


より広い全体的な霊的視野に立つと
人間一人一人の存在は
人類みんなの霊的成長の為に
わずかとは言え確実に
それぞれ寄与・貢献を
しているわけですから、

この立場に立てば自然と人間一人一人の存在に対して

「ありがとうございます」
「ありがとうございます」

と感謝の念が沸き上がってくると思います。


それは物的視野に立った
「ありがとう」というよりも
霊的視野に立った
「ありがとう」です。


例えば街ですれ違う一人一人の人々に
心の中で感謝する「感謝の行」を
するときは、こんな視点で感謝すると
霊的にもすごくいい感謝になると思います。

 

感謝一日百万回

昔の餃子の王将のCMで

「餃子一日百万個 食は万里を超える」

というのがありました。

結構古いCMです。

 

このCMを見ていた頃の僕は子供心に

 

「餃子で万里の長城を作ろうとしてんのかな?」

 

みたいなイメージで見ていました。

 

「ようさん餃子いるやろうなあ」

みたいな感じで。

 

まあ、それはどうでもいいんですけども。。。

 

あのCMを彷彿とさせる

 

「感謝一日百万回」

 

でございます。

 

実はこのワンフレーズ、

とある神社を参拝してお祈りしていた時に

何となく感じたインスピレーションなんです。

 

 

心の中にポトリと落とされたような意味内容で

 

「感謝一日百万回」

 

と。

 

 

「感謝一日百万回???」

何をいうとんねん。という感じですが

 

 

 

これは僕がいつかやってみたいと思っていた

一日中ぶっ通しで笑顔笑顔であり続けるという修行

「ニコニコ行」

における修行の姿勢を表現したものに相応しいフレーズだなあ

と思いました。

 

 

ニコニコすることは霊的にすごくいいことと思います。

 

「ありがとお。ありがとお。」

 

と大霊に感謝しながらウキウキした気持ちで

ニコニコするとさらにいいと思います。

 

感謝する対象はなんでもいいわけです。

花でも小鳥でも虫でも人でも物でも

全てが大霊につながっていますから。

 

 

ニコニコすればするほど

感謝すればするほど

大霊と共にいられるわけです。

 

「万歳!万歳!大霊だ!

たまにはそんな祭があってもええやないか!」と。

 

ひとりでお祭をやっているようなテンションなわけです。

 

 

僕が大好きなフレーズ、

「我らは神のために生き、神に向かって生きていく。

神の意思を知り、それを実践しようとする。」byインペレーター

 

ニコニコすることがその「実践」にあたるわけです。

感謝感謝で連続感謝することがその「実践」にあたると思うわけです。

正しいのかどうかは解かりませんが

とにかく簡単に出来る「実践」だと思います。

 

 

でも実際に「感謝一日百万回」しようと思えば

計算してみると無理っぽいんですけども。。。

 

 

一日24時間は秒になおすと8万6千400秒ですから

1秒につき約12回感謝しないと100万回にはおいつかんわけです。

 

 

1秒間に12回感謝している状態というのは

どういう状態なのかな??

と思いますけども。。。

 ものすごいバイブレーションですわな。

ブブブブブブ。みたいな。

 

 

昔、ファミコンの達人で高橋名人という人が

一秒間にボタンを12連打したという伝説を聞いたことがありますけども。。

 

 

どないやねんそれ。という感じでございます。

 

 

ともかく

それくらいの勢いで、

それくらいの気持ちのあり方で、

感謝をたくさんすると

「いい修行」になるのは間違いないと思います。

 

 

この「ニコニコ行」は

普段の生活の中でやっていきながら

ニコニコする時間をなるべくのばしていき

気がつけば一日中ずっと絶え間なくニコニコしてたなあ。。

となって完成するのが理想的だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

用語の問題 霊とか生前とか

「用語の問題は我々にとってはどうでもよろしい。人間どうしで通じ合えるような用語をこしらえることです。地上の論争の大半は、五感に反応しないものに関して地上の言語が不完全であるために、用語について共通の同意が欠けていることから生じています」霊の書p35(スピリチュアリズム普及会)

ーーー

霊的なことを表現するときに、その言葉をどうイメージして使っているか

という問題があると思います。

 

 

例えば「霊」という言葉も

何となく抱くイメージが人それぞれバラバラだと思います。

 

霊的なことに関心のない大半の地上人は

「霊=幽霊」的な怪談話のイメージを持っていて

 

「霊は怖い」とか「霊なんていない」とか

「霊=低級霊」のイメージで捉えているように感じます。

 

「霊」は「霊」でも高級霊と低級霊では雲泥の差があります。

 

スピリチュアリズムでは我々地上人自身も「霊」だし

守護霊・背後霊・指導霊も「霊」だし、天使や妖精、自然霊も「霊」だし

神社やお寺にまつられている神様仏様も「霊」だし

創造主(大霊)はもちろんのこと「霊」になると思います。

 

しかし一般的には

「霊=高級霊」のイメージはないように思います。

 

 

 

もちろん霊には高級霊も低級霊もありますが、

一番大事な高級霊のイメージが抜け落ちて

どうでもいいような低級霊のことばかりに

スポットをあてるようにイメージするのは良くないと思います。

 

 

大半の人がそうであるように

「霊=低級霊」のイメージでとらえる先入観があると

霊的なことを忌避してしまったり

歪んだオカルト信仰に陥ってしまう傾向があるように思います。

 

 

また日常使っている言葉で元々は仏教用語であるものが多々あります。

 

例えば「生前」という表現は面白いと思います。

 

亡くなった故人がまだ生きていた時代のことを

「生前」と言うわけですが、死ぬ前のことを「生まれる前」と表現するのは

奇妙な感じもします。

 

仏教では「死んで地上を去り極楽浄土に生まれる」とするので

「極楽浄土に生まれる前」、ということで「生前」と言うようです。

 

霊界のことを「極楽浄土」と表現するかどうかは別にして 

この言葉の面白いところは視点が霊界にあるところです。

 

霊界目線で地上時代のことを振り返って見て

霊界に生まれる前のことを「生前」とするわけです。

 

つまり霊界での「生」がメインで

地上の物質界での「生」はサブとする

スピリチュアリズムの観点が「生前」という言葉の

裏にあるように思います。

 

これは霊的真理です。

視点が霊界にある言葉は珍しいと思います。

 

僕はお寺との縁があって

つい 仏教の肩をもちがちなんですが、

これからの仏教のあり方を考えますと

 

言葉の意味は時代によって変わっていくように

仏教の言葉や考え方もスピリチュアリズム的に解釈しなおす

という作業が必要なのではないか。。。

と思っています。

 

 

 

 

花の恩返しから学んだこと

職場のあるダムの管理所から300mほど離れたところに

ぽつんと小さな庭があるんですが。

先日、草刈りをしたんです。

 

そこの草が膝下くらいの高さまで伸びてきていたので

「そろそろ草刈りせなあかんなあ。」と

思いながら見ていたんです。

 

電動芝刈りバリカンという道具で
草刈りしていたんですが。

草刈りの途中で雑草の中に白と黄色のマーガレットのような
野草の花があることに気がついたんです。

 

中央が黄色で白の花びらの花が
5~6本かたまって咲いています。

 

雑草とはいえ花のある草を刈るのは少し気が引けます。

 

かといって刈らないというわけにもいかず
普通は雑草に花があってもそのままバーッと
刈ってしまいます。

 

しかしその時は、雑草の中のマーガレットの様な花をつけた草を
何となくそのまま刈るのは忍びなかったので

 

「ようし!まかせとけ!」
と思いましてですね。

 

そこだけ5~6本の草を刈らずに
そのままにしておいたんです。

 

 

白と黄色のコントラストが綺麗やなあ。と思いながら

 

「かわいいなあ。綺麗やなあ。大霊や。大霊や。」
とニコニコ返しで花に愛を送りまして。


草刈りが終わってから見ると、
刈り残した花のところだけが
ポツンと愛らしく残っていて

 

「ええこっちゃ。ええこっちゃ。なかなか感心なこっちゃ。」
と自分で自分を誉めてですね。

 

なんとなく霊的にすごくいいことをしたような
気になりまして。

ルリリリランランルリリララ♪
だったんです。

 

その次の日のことです。
職場に出勤したら受付のカウンターの
ところにですね。

 

なんと。

 

昨日刈り残したあのマーガレットのような
黄色と白の花と全く同じ野草の花がグラスに5~6本入れて
飾られていたんです。

 

「なんと。」

と思いまして。
すごく愛らしく感じられました。

 

昨日、刈り残して愛を送ったことの
お礼を言いにきたのかな。と思いましてですね。
もう嬉しさがこみ上げてきました。

 

ピンと霊的存在の関与を直観しました。

 

「誰がこの花を生けたのかな?」と
思っていたら、職場では一番えらいさんになる
所長が生けたとのことでした。

 

「へーえ。」と思いましてですね。

 

僕はその時、昨日刈り残した花を所長が見つけて
摘んできたのかなと思いましたが、

昨日の草刈りの現場に行ってみると
刈り残した花はそのまま残っていました。

 

 

つまり所長はどこか違う場所からあの花を摘んで
グラスに入れ受付に飾ったようです。

 

 

所長が何を思ってあの花を活けようとしたのかは解かりませんが

所長の思考をコントロールして
あの花の生えている別のところへ向かわせ
摘んで飾ろうと思わせた霊的存在の関与がないと
このような偶然はないだろうと思います。

 

霊界が動いたら
「動きましたで。」
みたいな感じで霊界が動いた「跡」が
偶然という隠れ蓑に隠れながら

さりげなく自己主張しつつ残されるものです。

 

シルバーバーチ
「偶然といったものはありません」
と言っていますが、霊的世界がその存在(霊的法則)を
表現しようとしたのかも知れません。

 


僕が花を刈り残そうと思ったことも
ほんの少し霊的に良いことだったのだと思いますが

 

所長がやさしい心で野草の花を受付に飾ろうとしたことも
霊的に良いことなのだと思います。


そして受付に飾られた摘まれた花も
刈り残された花(同胞)のお礼をするために
自分を犠牲にしてやってきてくれて
これが一番霊的にすごいことだと思いました。

 

この摘まれた花がある意味ものすごく崇高な
自己犠牲と愛の理想の姿を教えてくれて
いるのかも知れない。。。と思いまして。

 

「霊的に良いこと=霊的成長」
と捉えてもいいと思います。

 

ほんの少しの霊的成長が霊的好循環を生み
全ての存在にリンクして
霊的にも良い影響を生み出して
いくのだなあと思いました。

 

神の摂理・霊的法則を学ぶ上で
まさに自然は生きた教材なんだと
思いました。


飾られた花にはいつも以上に
ニコニコ返しをしてお礼の愛を
送っておきました。

 

「花さん、ありがとう。」

ニコニコニコ♪
パワワワワァァァ。

 

滝から学んだこと

滝に行ってきました。

 

ちりりんさんに滝師匠なんて
大きな名前をつけられてですね。

 

もう、滝に行かざるを得ない感じですわな。

 

僕なんて、とても師匠なんて言われる程の
修行はしていないです。

でも愛情を持ってそのように言われるのは
とても嬉しいです。

 

その日は

「さあ今日は滝師匠の出番やでえ。」と
思いましてですね。

 

「さあ。滝師匠が参上させてもらいまっせえ。」と
思わさせてもらいまして。

 

「ぽん氏、滝に行かざるを得なくなるの巻き」
みたいな感じでございます。


朝は4時半に起きてですね。
早朝の山の中へ入って行くわけなんですが。

 

今の季節はもう5時半頃はかなり明るいですね。

 

冬の5時半は真っ暗ですけども。

 

まだ暗い山に入っていくと
「川明かり」と言いまして
川のところだけが真っ暗でもほのかに明るいのが解ります。

 

川の水というのは
うっすらと光っているんです。

 

水というのは発光しているんですね。

 

僕はこの「川明かり」が好きで
2年程前に熱心に修行していた時は
川明かりのほのかな光に
勇気づけられたものです。

 

滝の水はまだ冷たいとはいうものの
冬に比べると、かなりましになってきました。

 

滝に入る時は神にお祈りをして
気合いを入れます。

 

「神よ。大霊よ。
神のお手伝いをするためにはどうあるべきか
どうかよろしくお教え下さい。」
と祈りましてですね。

 

守護霊にも
「よろしく学ばせてください。たのんます。」
と念じまして入っていきます。

 

滝に入ると身体が滝に馴染んできて
瞑想が深まってくるまで
不動明王真言マントラ)を唱え続けます。

 

「なあまくさあまんだあ…」
言いながらですね。

 

真言は特に必要ないと思いますが
滝に入ってすぐの時など
気合いを入れた状態から瞑想状態へ
移行するまでの間は
マントラ瞑想みたいな感じで
唱えるようにしています。

 

滝の中での身体が馴染み
真言を唱えるのが不要になれば

「ととととと…」

という身体に当たる水の音に
集中しながら瞑想を深めていきます。

 

今回は30分くらい打たれてきました。

 

滝から出ると
最後の締めに川の水で水垢離を
行いまして、その後
顔と頭を洗います。

 

もう濡れネズミみたいに
なりましてですね。

 

身体が芯から冷えて
ボロ雑巾状態です。


それから着替えて
あたたかい服に身を包まれますと
Tシャツ一枚、靴下一枚が
「ありがたいなあ」と
実感出来ます。


普段生活しているとTシャツや靴下に
感謝することはないと思いますが

「行」をすると骨身に沁みて
そのありがたみが実感できると思います。

 

「ああ。なんと靴下一枚のありがたいことよ。
神様ありがとうございます。」

みたいな感じです。

 

そんなとき
「ああ。やっぱり「行」をやって良かったなあ。
今日はいい「行」が出来た。」
と思えるんです。

 

正直、「行」に来る前の日は
ちょっと怖いんですけども、
終わればいつも
「ああ。やってよかった…」と思います。

 

このあたりも修行の魅力だと思います。

 

そして。
何となくですが。。。

 

滝から出て冷えた身体を温めながら
体力を回復させつつある時に、
じわじわと解凍されるように
霊的な存在から頂いたと思われる「意味内容(インスピレーション)」が
現れてくるように感じましてですね。

 

それが前回の記事のタイトルになった

「神が縛ったものは神がほどく」

というワンフレーズです。

 

ここから色々と考えてみて
前回の記事になりました。

 

 「神が縛ったものは神がほどく」

 

もう少し考えを進めますと
神の手伝いをして「縛る仕事」をする者もあれば
神の手伝いをして「ほどく仕事」をする者もある。

 

神の目から見ると両方が必要ですし、

両方が神の使者なんだろうと思います。

 

そして
「ほどく仕事」をする者がスピリチュアリストに
なるのかも知れません。


なんとなく霊的な存在から

「ほどいてやれ」

と言われたような気がしましてですね。

「こら、がんばらなあかんな」と。


スピリチュアリストとして
そういう仕事が出来るように
日常の修行を努力していきたいと
思いました。

 

神が縛ったものは神がほどく

うまい例え話は知性を活性化させ生き生きさせる。と言うようです

うまく例えられているかどうかは解かりませんが

こんな例え話を考えてみました。

 

死後も地上的価値観の束縛が強く、

地上界と霊界の中間にあたる幽界にとどまり

霊的成長の進歩がなかなか出来ない霊を

スピリチュアリズムの用語では地縛霊と言います。

 

いわゆる成仏しない霊(幽霊)という意味で理解してもいいと思います。

 

地縛とは 

物的(地上的・肉体的)な価値観の縛りが強い

という意味だと思います。

この「縛る」という表現は言い得て妙な

表現だと思います。

 

太いロープでグルグル巻きにされているようなイメージ

を抱いてしまいます。

 

ある意味では生きている我々地上人も

肉体の束縛が強い状態なので

地上(肉体)に縛られているという意味では

「地縛」状態になるのだと思います。

 

それにしてもこの「縛る」という表現ですが、

では誰が地上に「縛った」のでしょうか?

 

縛った主体は誰かというと

全てのものの第一原因である

「神(大霊)」になると思います。

 

「神によって縛られた=神によってベールがかけられた=神によって物的世界は作られた」

と理解してもいいのかも知れません。

 

地上人は肉体が死ぬと肉体を捨てた霊的存在になり

地上的な縛りから脱していくものと学んでいます。

 

しかし地上的な価値観・感情の影響が強く

自分で自分を縛るように

 霊的成長の道を歩めない地縛霊もいるようです。

 (「自縛霊」と表現できるのかも知れません)

 

一方では、生きた肉体を持った状態でありながら

地上的な縛りから(部分的に)脱してしまう霊もあって、

 それが霊的覚醒しているスピリチュアリストになるのかも知れません。

 

(部分的に)としたのは、例えスピリチュアリストでも

生きた肉体を持っている以上、

肉体的束縛から完全に脱することは

到底不可能だと思うからです。

 

生きた肉体を持つものが霊的覚醒するには、

苦しみの経験が必要です。

ーーーー

悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線にふれた時、一番よく魂の目を覚まさせるものです。魂は肉体の奥深く埋もれている為に、それを目覚めさせる為にはよほどの体験を必要とします。

シルバーバーチの霊訓(1)P55

ーーーーー

 

この場合 

例えて言うならこんな表現が出来るのではないでしょうか。。

 

太いロープでグルグル巻きにされている地上人をイメージしてください。

 

神は生きた人間から

地上的な価値観という太いロープの縛りをどのように切るかというと

やさしくロープをほどいてくれる、のではなく

 

むしろそのロープの縛りをギュウギュウに強めるのです。

 

そしてロープの耐久性の限度を超え

ロープが痛んで「ブチッ」っと千切れるまで

ものすごい力で縛りを強めます。

 

このように縛りを強めて強めて

ロープを弱らせて

生きた肉体から地縛のロープをブチ切る。。。

 

こんなロープの解き方があるように思います。

(カルマの切り方と表現してもいいかも知れません)

 

しかしロープの縛りが強められている

その最中は中にいる人間はたまったものではありません。

 

相当な苦しみを伴うと思います。

しかしそれに耐えてこそ、魂は鍛えられるのだと思います。

 

その苦しみはその人の霊的背景に釣り合った苦しみで

その人にとってなくてはならない必要な苦しみです。

神は完全です。

間違うということがありません。

 

 

ロープの縛りが強められている最中は

あまりの苦しみに「死んだほうがましだ」と

思うかもしれません。

 

あるいは早まって自殺の道を選んでしまう場合もあると思います。

 

しかし神はその人に耐えることの出来ない苦しみは

お与えになりません。

 

ロープの強さ < その人の魂の強さ

 

ロープよりもその人の魂の強さのほうが頑丈にできている。

神はそれを知悉しているからこそ、縛る力をゆるめない。

必ずこのような構造になっているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひと手間を かけて霊性 整える♪

シルバーバーチの霊訓(1)潮文社

善のための努力が無駄に終わることはありません。

人のための試みも無駄に終わることはありません。

善行に嫌気が差してはいけません。

成果が表れないことに失望してはいけません。

人のために役立とうとする願いは、自動的に霊の世界からの援助を呼び寄せます。

決して一人であがいているのではありません。

どんな状況のもとでも、まわりには光り輝く大勢の霊が援助の態勢で取り囲んでいます。

裏切ることのない、その霊の力に絶対的な信頼を置き、頼りにしなさい。

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僕はダムや河川に関して管理する仕事をしています。
仕事上、週に3~4回は川のすぐそばまで行きます。

川の水に直接触れる機会もよくあります。

 

そんな時、仕事とは別に川に落ちているゴミを一つか二つ
ほんのわずかですが拾って持ち帰る
プチ清掃活動をしています。

ルリリリランランルリリララ♪

 

片手で持ち帰るほどの本当にわずかなゴミ拾いです。

 

申し訳のないことですが
たくさんゴミ拾いすることはありません。

それは負担になってしまうので
片手間に出来る範囲にとどめています。

 

ですがたった一つでもゴミをそこから無くすことによって
それだけ河川はキレイになるわけで。。。

 

それだけ「川」や「水」が喜んでくれるだろう
という思いでやっています。

 

ほんのわずかなゴミ拾いでは
河川は物理的にはまったくキレイにならない
と思います。

 

ほぼ自己満足の世界です。

 

ゴミは途方もなく膨大にありますから。


しかし、ほんのわずかでもゴミを川から掃除すれば
それだけ「川」が喜んでくれると思います。
「水」が喜んでくれると思います。

それだけ「川」がニッコリ笑う。と思うのです。

 

 

僕は水に関する仕事をしているので
水に対する感謝は常日頃から特に意識しています。

 

「川よ。ありがとう。」
「水よ。ありがとう。」
「雨よ。ありがとう。」
ルリリリランランルリリララ♪

 


水に対する感謝を、
プチ清掃で表現するという意味もあります。

 

また水に感謝することで自分の仕事に対する姿勢を正す
という意味もあります。

 

そこにわずかですが、霊的な進歩があると思います。

 

こんな句を作りました。

 

ひと手間を かけて霊性 整える♪

 

まさに

ルリリリランランルリリララ♪

だと思います。

 

 

 

 

 

 

公開ヒーリングに参加して

日本スピリチュアルヒーラーグループさんが主催される、
公開ヒーリングに行って参りました。

 

僕が参加した第15回公開ヒーリングは
平成29年4月29日京都の長岡京市で開催されました。

 

何日も前から心待ちにして、そわそわしていました。

 

当日は今までの人生を振り返り、色々と紆余曲折があり
「ついにここまでたどり着いたのだなあ…。」
という感じがして、感慨深いものがありました。

 

今から思うと、僕の人生において
スピリチュアリズムに導かれる時期というのは、
僕が生まれる前から計画は
出来上がっていたのだと思います。

 

とはいえ、人生の現場で僕をうまく導くために
見えないところでサポートしてくれていた
守護霊はじめ指導霊、背後霊団に
深く感謝せずにはいられませんでした。

 

人生の節々でいつも側にあたたかく寄り添ってくれている
霊的存在がいたことを何となく感じることもありました。

 

「守護霊さん、ありがとう。ようやくここまで来れました。」
と感謝の思いを捧げました。

 

公開ヒーリングの場は
本物のスピリチュアリズムを体験できる場です。
霊界の高級霊と直接コンタクト出来る
貴重な場であると思います。

 

 

僕にとって公開ヒーリングの場は
ある種の人生の節目のように感じられました。

 

受付をすまし、ヒーリングが始まるまでの間を待ちながら
これまでの人生を振り返り、
ふとこんな思いを抱きました。


あの孤独の中で震えていた時も、
あまりの苦しみに床をかきむしった時も、
悲しみの絶望の中で涙が止めどなく溢れた時も、
極寒の中、泣きながら修行したときも
すべては今この場所にいたるまでの
道の途中であったのだ。と。


当時のことを懐かしく
またいとおしく感じました。

 

 


霊界の霊医が霊的エネルギーを送ってくれるという
スピリット・ヒーリングの説明を一通り受けてから、
3人のヒーラーの方々が入場してきました。


ヒーラーが入場してきた瞬間
涙が溢れました。

不思議な感覚でした。

 


ヒーラーの方々は仏様のような
あたたかみに満ちた神々しい雰囲気がありました。

 


ヒーラーの方々もこうしてヒーラーとして
ヒーリングの奉仕に導かれるまで様々な苦難を
体験されてきたのだろう、と思いました。

 


6人の患者の代表者によるメインのヒーリングが終わり、
最後は今日の参加者一人一人全員がヒーリングを受けました。

 


僕も軽く両腕に触れてもらいヒーリングを受けました。
あたたかくて、やさしさに満ちた霊妙なきめ細かい
エネルギーが癒してくれているように感じました。

 

今回の公開ヒーリングに参加して

全体を通じてこんなことを思いました。

 

「ああ。なんと偉大な高級霊なんだろう。
出来ることなら自分もまた
あれら高級霊のようになってみたいものだ。
自分を役立て、神の御子に奉仕することによって神に奉仕し、
そのようにして神のすぐそばにいることが出来たら…。」

 

「神よ。どうかあなたのすぐそばにいさせて下さい…。」

 

畏れ多いことですが、何となくこんな思いを抱きました。
そして感動の涙が溢れました。


スピリット・ヒーリングの本当の第一目的は
病気を治すことではなく、魂の琴線に触れて
霊的覚醒のキッカケとなることです。

 

僕も今回のヒーリングで自分の人生を改めて
振り返り、魂の琴線に触れたような気がします。


そしてますます神(大霊)への敬慕の思いを強くしました。

 

 

ふとインぺレーター霊の神への忠誠心を思い出しました。

 

インペレーター霊は次のように神への思いを述べています。

「我らは神のために生き、神に向かって生きてゆく。
神の意志を知り、それを実践しようとする。
そうすることが自分のみならず、全ての創造物に対しなにがしかの
貢献をすることになると信じるからである。
またそうすることが神に対する人間としての当然の敬意を
表明するゆえんであり、神が嘉納される唯一の献上物なのである。
我らは神を敬愛する。神を崇拝する。
神を敬慕する。神に絶対的に従う。」

 

インペレーター霊の「霊訓」のこの一節は
何度読んでも、この「神に絶対的に従う。」という
ところで目頭が熱くなります。

 

あれら先を歩まれる諸先輩の
高級霊の後を慕い、自分も同じように
「神に絶対的に従う」道を歩みたいと
決意を新たにしました。


今回、公開ヒーリングに参加させていただき
貴重な時間を過ごさせていただきました。

 

公開ヒーリングを開催していただいた
日本スピリチュアルヒーラーグループさんをはじめ
主催者の方々に深く感謝したいと思います。

 

本当にありがとうございました。

 

苦しむことも「仕事」のうち

霊的な意味での

「仕事」について考えました。

 

世の中にはいろんな仕事があります。

 

職業という意味での仕事だけでなく、

日常生活で掃除したり、何かの作業をしたり、

何らかの活動すること(生きること)を仕事と捉えることが出来ると思います。。。

  

何か仕事をしている人に

「精がでますなあ」

と声をかけたりしますが、

 

仕事の本質とは「精をだすこと」。

つまり霊性を使い、発揮することではないか。。

と思います。

 

 

よい仕事は、

そこで出来る限り

自分の霊性を発揮し、

霊的に成長した痕跡が残るものなのかもしれません。

 

 

仕事といっても、

霊的な意味での「仕事」があると思います。

 それは神(大霊)から与えられた「仕事」です。

 

地上の人間だけでなく、

花や木、虫や魚や鳥などの動植物のみならず

霊界の霊的な存在も

神が創造された全ての

存在に各々与えられた仕事があって

その仕事を神に奉納するべく

コツコツとモクモクと

やり遂げなければならないのだと思います。

 

例えば病気で苦しんでいる人は

苦しむことが仕事なんだと思います。

 

病苦に苦しむ人は

大変だとは思いますが、

 

そこで苦しむのが

神から与えられた仕事であって

立派にその仕事をやり遂げて

 

神(大霊)にその霊性の成長を奉納しなければならないのだと思います。

 

 

 

 霊的な意味での仕事のほうが

地上的な意味での仕事よりもはるかに重要です。

そこにその人が生まれてきた霊的意味があるからです。

 

 

障害を持って生まれてきた方は

障害を引き受けるのが

神から与えられた仕事であって

その道で立派にその仕事をやり遂げなければならないのだと

思います。

 

神は完全です。

間違うということがありません。

全ての人それぞれの霊的背景にふさわしい

「仕事」を全ての人それぞれに

お与えになられていると思います。

我々はその「仕事」を立派にやり遂げねばならないと思います。

 

 

障害があるから神を恨むのは神の理解が間違っています。

 

その人が神に愛され神の愛が完全無欠で機能しているからこそ、

その結果として障害があるわけであって、

つまり障害があるからこそ神に感謝しなければならないのだと思います。

 

重い障害で一生を寝たきりで

生きなければならない人もいると思います。

 

物(肉)の目で見ると何もすることが出来ない

気の毒な人生のように見えるかもしれませんが、

 

霊の目で見ると

その人にしか出来ない

神から与えられた仕事を立派にやり遂げた、

難しい仕事を成功させた、

偉大な人になるのだと思います。