スピリチュアリズムでおはようSUN

シルバーバーチの志を学んでいます

憑依について5

今から考えると、憑依が深刻化ていた時というのは
霊的に虚弱な状態にあったように思います。

 

霊的な知識も経験もなく
「憑依」という言い方があることも知りませんでした。

 

全くの徒手空拳の状態で何かどうなっているのかを手探りしながら
右往左往していたように思います。

 


しかしあれから10年経過し、霊的真理の勉強をし
また修行をはじめ様々な経験を得ることで
何となく抵抗力がついたように思います。

 


しかし霊的に虚弱な状態だった当時は
おそらく危険な状態だったように思います。


憑依による「殺意」を感じたのもその頃です。


「~しなければならない…。。」
という強い強迫観念があったと記憶しています。

 

「自分が死刑になってもいい。家族が悲しんでもいい。
今まで積みあげてきた自分の人生が台無しになってもいい。
むしろそれほどまでに、それくらいに、
あいつは殺されて当然の奴なのだ。」

 

こんな感じの強い「義務感」があったように思います。

 

憑依が深刻化すると何らかの事件、事故が起こるように思います。

憑依が進むと確かに心神耗弱状態です。その人の理性は相当弱まっている状態だと思います。


最近でもありましたが、通り魔的な殺人事件、無差別殺傷事件など、憑依が関係していると思われる事件について興味がありまして色々考えたりしています。

 

こうした事件の容疑者は犯行時は心神耗弱状態で刑事責任が問えるのかという議論があります。

要は頭がおかしくなっているので罪は問えないのではないか?
という意見です。

確かに一理ある意見だと思います。


では霊的な責任はどうなっているのかを考えてみます。


無差別殺傷事件の容疑者は憑依を受けている要素があるにせよ
そこまで憑依を深刻化させてしまった責任は
その人自身にあるように思います。

 

低級霊に憑依される原因は
厳しい言い方になりますが
その人自身が低級霊だから。という要素が
大きいと思います。

 

また憑依の究極的な原因は憑依される人の
カルマにあると思います。

 

憑依による苦しみは、憑依される人のカルマの解消のために必要なものであり、

そのおかげで霊的成長の道を歩めるのであるから、その苦しみは霊的にはむしろ喜ばしいことと学んでいます。


憑依されている人は憑依されていることを自分で気づき、
またその原因が根本的には自分にあることを洞察して
自分の生き方考え方を改め、霊的成長の道を歩むよう努力しなければならないのだと思います。

 

なので憑依霊を一方的な悪者と解釈するのは間違っていると思います。


また一方で、憑依している霊は霊でその霊自身に霊的な責任があるように思います。

 

例えばある人物に悪意を持って取り憑いて自殺させたり、殺人を犯させたりした低級霊の場合はその霊自身がそれ相応の責任をとらされることになると思います。

摂理は完璧ですから。

 

ただ、中には憑依霊自身に自分が憑依しているという自覚がないものもいるようです。
それは地上人に自分が憑依されているという自覚がない人がいる場合とよく似ています。

色々なケースが考えられますが、どのような状況であれ摂理によって自動的にそれぞれそれ相応の正確無比な霊的責任が発生しているものと思われます。

 

 


恐ろしい殺傷事件が起こった場合、加害者側だけでなくその被害者側の

「殺傷を引き寄せた要因」も連動しているはずだと思います。

 

地上的視野でみると殺傷事件の被害者は
頭のおかしい加害者によって一方的に理不尽に
殺害されてしまった運の悪い人、かわいそうな人になると思います。

 

しかし霊的視野で見ると偶然というものはありません。

 

その被害者の殺傷被害にはその人のカルマが原因しており、
カルマを解消するために自身が殺傷されるという被害の経験が必要だったために、神の厳然たる摂理が働いてその加害者を見えない力で引き寄せて加害行為に至らせた可能性があると思います。

 

ある意味では加害者は被害者のカルマの解消のために
何らかの霊的な「仕事」をした、と考えることもできます。


僕は憑依が深刻化していた時に「義務感のような殺意」の感じを受けましたが、被害者側のカルマという霊的因子がそのような感じを起こさせて見えない力となり殺傷行為を引き寄せるのかもしれない、と想像したりしています。

 

こうした視点はやや複雑な霊的視野になるのかも知れません。

 

ある意味では加害者は被害者のカルマの解消のために神の厳然たる摂理が働いて神によって作られた要素がある、、と考えることも出来ます。

そう考えると、加害者はその一点のみについては神に情状酌量の要素として評価されるのかも知れません。


神は完全なので、それぞれの霊的背景にふさわしい状態で、
被害者のカルマの解消の兼ね合いと、
加害者の学ぶべきカルマとの兼ね合いが
「一分の隙もなくパーフェクト」に噛み合っているはずだと想像します。


被害者のカルマの解消の手伝いをするという意味では、加害者に憑依して加害行動を促した憑依霊は霊的な「仕事」をしてくれている、という要素もあるように思います。
(憑依霊にそういう意識があるかどうかは解りませんが)

 

つまり憑依霊などの低級霊はより高次の霊的存在、究極的には神(大霊)からのコントロールを受けて(神の管理下で)そうなった=加害行動を起こしてしまった、そんな要素もあるのかもしれません。


まったくの想像にすぎませんが、
こうした殺傷事件で殺された被害者が霊的に成熟していた場合、
殺された直後は混乱するでしょうが、やがては真理を悟り、今度は自分が霊的な「仕事」をするべく自分を殺した加害者の「霊的成長」の為に恩返しとして努力するようになるのかもしれません。


神が加害者に与える情状酌量の余地が、被害者の霊からの霊的サポートという形で返ってくるのかもしれません。


もしこんなケースがあった場合、こうした霊の働きを
「怨霊の祟り」と解釈するのか、
「神の愛の現れ」と解釈するのかは
各々の霊的な理解力によるのかも知れないと想像しています。

 

 

恐ろしい殺傷事件が起こるたびに考え込んでしまいます。

一体何がどうなっているのか…。
こうしたことを色々と考えたりしますが結局はよく解りません。

 

 

唯一確かなことは

神は間違わない。

ということだと思います。

 

ただ神に祈るばかりです。

(憑依について6に続きます。)

 

憑依について4


憑依霊が出てくることで「解らない」ことから来る苦しみは半減したように思います。

 

そもそも物質的な尺度では捉えられないものを
物質的に解釈しようとして無理が生じていたのでした。

 

「解らない」苦しみは
「霊的なことなのだから、解らなくても仕方がない…」
と納得することで落ち着いたのでした。

 

僕の身体をコントロールした憑依霊がその後どうなったのかは解りません。

 

自分の死を自覚し、いわゆる成仏をしたような状態になったかどうかは不明です。なんとなくそんな気もするし、よく解かりません。

 

もしかしたら背後霊(因縁霊?)として今でも側にいるのかも知れませんが、いずれにせよ僕が霊界に行ったときに解るかもしれないと思っています。

 


そしてもう一つ印象に残っている憑依の経験があります。
それは憑依によって「殺意」を感じた経験です。

 

身体をコントロールされた事件が起こって間もない時です。

 

僕は家に縁のあるお寺で父とともに
家業の建築業のアルバイトをしていました。

 

そのお寺には大小様々な蛙の置物がたくさん置かれているのですが、

その蛙の置物を作業の支障にならないよう脇に避ける為、
抱えながら運んでいたときの事です。

 

僕はその蛙の置物を抱えながら電気に打たれたような衝撃とともに
「これは自分の赤ん坊だ。こんなところにいたのか。」
と思ったのです。


「ああ。そうだったのか。そうだったのか。」
「やっと見つけた。こんなところにいたのか。やっと見つけた。」

 

と思って涙が溢れました。

 

何故蛙の置物を自分の赤ん坊と思っているのかは解りません。

その寺に蛙の置物があることはずっと知っていましたが
その時初めてそんな感じ方をしました。


今から考えると、
その時の僕の思考や感じ方が憑依霊等の霊的な影響によって
コントロールされてそのように思ったのだろうと思います。


そして
「自分の赤ん坊は大丈夫だろうか…。」
「こうしてお寺で供養されているので安心のはずだが…???」
などと思うのでした。


そのように感じながらも仕事の作業は続けていました。

 

お寺のある事務員さん(仮にAさんとします)が僕の側を通りかかりました。
Aさんとは普通に挨拶する程度の間柄です。

 

特に話したこともなく名前も存じ上げない仲でした。


普段はAさんのことを特に気に止めることもなかったのですが
この日Aさんが通りかかった時、
蛙の置物に何か悪さをするのではないか?

という思い込みに囚われました。

 

「悪さ」というのは蛙の置物を蹴ったり壊したり邪険に扱ったりするようなことをイメージしていたと思います。

 

「絶対に許さない!」
「もしそんなことをしたら、あいつを殺してやる!」
という殺意を抱きました。

 

僕はAさんの行動を目で追いながら
Aさんが蛙に手をかけるかどうかを注視していました。


僕はその時「しの」という金属製で先のとんがった
大工道具を持っていました。


もし何かAさんが蛙の置物に変な行動をとるようなら
この「しの」で刺そうと思いました。


「しの」を握る手に力を込めながら
その時がくるかどうかを待ちました。

 

普通「殺意」といっても実際にはリアルに想像出来ないと思います。


しかしその「殺意」は
「これが本当の殺意というのか…。」
と思う程の強烈な「殺意」でした。


「もうどうなってもいいんだ!」
「あいつを殺さねばならない!」
「あいつを殺すために自分は生まれてきたのだ!」
「自分の全人生はあいつを殺すためにあった。」
という

 殺すことに対する「義務感」

 のように感じられました。

 

このような殺意に囚われたら

 

 「止まるものではない。」

 という印象が残っています。

 

僕は仮設の建物の上に登っていましたが、上から威嚇するように
Aさんに「殺気」を放ちました。

 

Aさんが妙な気(?)を起こさないように
「殺気」による威嚇で相手の行動を封じようとする意図もあったように思います。

 

「しの」を握る手に力を込めて
全身全霊の殺意で突き刺すように
「殺気」を飛ばしました。

 

その時の僕はおそらくこの「殺気」をAさんも気付いているだろう、と思いました。


僕がそんな状態で威嚇する体勢で構えている時に、
父が僕に声をかけました。

 

僕は少し正気に戻りました。

 

実は「殺気」を放っているときも意識のどこかでは

 

「これはおかしい。。。」
「また霊現象か…。。。」

 

という感覚はありました。

 

何故自分はほとんど見ず知らずの人を
蛙の置物というよくわからない理由で殺そうとしているのか?

 

この「殺意」はどこからきているのか?

 

明らかにおかしいことは「意識」のどこかで
感じていたと思います。

 

また父がすぐ目の前にいるのに
そこで殺人事件を起こすわけにはいかない
という「意識」もあったように思います。


僕は殺気を飛ばすのを止めて作業に戻りました。

 

作業をしていると「殺意」のタイミングがズレてしまって
先程までの殺意が失せていきました。


そして「自分には(殺しは)出来ない。」という思いを抱きました。
と同時に涙が止めどなくあふれ出ました。

 

「自分には出来ないんだ。」と。

 

その時は木材を3~4人で運ぶ作業をしていましたが
涙があふれ出続けている状態で作業をしました。

 

その場にいた人は僕の涙が止まらないのを
見ていたはずですが不思議とスルーされて
作業は普通に行われました。

 

そして先程までのAさんに対する感情も無くなりました。

 

何故蛙の置物を自分の赤ん坊だと思っていたのか?

何故先程までAさんに殺意を抱いていたのか?
キツネにつままれた様によく解りませんでした。

 

しかしその「殺意」は実体実感のあるもので

そうした思いを抱いている地縛霊の実在と

その影響力を確信するのに十分な出来事でした。


以上が憑依によって殺意を抱いたと思われる経験の
あらましです。

 


僕は実際には人を傷つけることはありませんでしたが、
世の殺人事件や無差別殺傷事件などの通り魔事件は
低級霊の憑依による影響が大きいように思います。


こうした事件で逮捕された容疑者が

「誰でもよかった。殺せという声が聞こえた」

といった供述をしていることがあると思いますが、
おそらく憑依霊の声を聞いているのだろうと思います。

 


その「殺意」はおそらく凄まじいもので、
もしそうなってしまったら止まるものではない。
と思います。

 


例えば一人では行動に移せない殺人行動も
「殺意」を持った低級霊がたくさん集まることで
赤信号みんなで渡れば怖くない」的に良心の声はかき消されて
殺意は巨大化し、ついに実行出来てしまうのかもしれない。。。

と想像しています。

 

(憑依について5に続きます)

 

憑依について3

その頃の僕は父に誘われ実家の建設業の手伝いをしていました。

 

ちょうどその時は、家に代々縁のあるお寺のお堂を新築する大工工事に僕もアルバイトとして参加していました。

 

その日の仕事中、ふと父の姿を見た時、
悲しくて申し訳ない気持ちになりました。

 

「自分のせいで父がいじめられているのだ。」という想念に囚われ
「自分が何とかしないと父が大変な目にあわされるだろう。」
「申し訳のないことだ。父に殺されるのならまさに本望だ。」
という思いを抱きました。

 

そして申し訳ない思いと悲しみの思いで
胸が潰れるように苦しくなるのでした。

何故そんな思いに囚われたかというと、
やはり自分が悪いから頭がおかしくなっている。。。
というとまさにその通りだと思いますが、

 

おそらく複数の憑依霊の想念や
イタズラ霊のオモチャとしておもしろおかしく思考がコントロール
されていた要素もあるのだろうと思います。

 

その日の夕食時のことです。

 

僕は酒を飲んでなんとかしようと思い立ち、
その日のしばらく前に買っておいた焼酎を
ロックで呑み始めました。

 

酒を飲めば勇気が沸いてくるだろう、
という思いがあったように思います。

普段の僕は酒はほとんど飲まないのですが、その時は急にアルコール度数の強い酒をガブガブ飲みだしたのです。


しかし不思議に酔っている、という感覚は無かったように思います。


なかなか酔わない、と思っていたこともあると思いますが
もっと飲まないといけないと思い、酒を飲み続けました。

飲んでいくとどんどん悲しみの思いに囚われ
涙が止めどなく溢れました。


涙が止めどなく溢れるのが恥ずかしくて、
涙を止めようと思うのですが、
悲しみで胸が潰れるような思いはむしろどんどん強くなり、

涙は次から次へと溢れ出て自分の意志では止めることが出来ませんでした。

 

その時は夕食時のリビングで、母と姉が家にいたはずですが
不思議と僕の周りから人がいなくなったように記憶しています。


僕は涙を人に見られるのが恥ずかしいという思いもあって、
トイレに行こうと思い立ち席を外しました。

 

部屋(リビング)を出た瞬間、悲しみの思いはますます強くなって、
ついに声をあげて泣き始めました。

 

今まで我慢していたものが堰を切ったようでした。

 

その泣き方は、まさに慟哭でした。

全身の力は抜け、泣き崩れるように
その場にしゃがみこみました。

 

涙は止めどなく溢れる状態で

今の自分の姿を
「見ないでくれ!」「見るな!」
という意識が働き
その時着ていたセーターを脱ぎ
長袖の部分で自分の目を
目隠しするように目を縛りました。

 


目を縛って視界が真っ暗になると
ますます憑依が強まり、
凄まじい悲しみの感情と
暗黒の中で慟哭する存在
そのものになったように思います。


まさにこの時に僕の肉体は完全に
憑依霊のコントロール化に入ったように思います。

 

この時、僕の肉体はトイレに向かって匍匐前進を始めました。
下半身には力は入っていませんでした。

 

床に指を立てるように床を掴みながら
手の力で前に進み出しました。

 

その時の感情は「悲しみ」と「怒り」です。

交互に悲しみの慟哭の波と
怒りの波が押し寄せるような状態でした。

 

天地を貫くような凄まじい感情です。


その存在そのものが「感情」だけの存在。。。
という印象が残っています。


そしてトイレの前まで来るとトイレのドアの手前の床を
手で指を立てて慟哭しながらガリガリと掘ろうとする動きを始めました。


その動きは僕の意志とは別の存在の意志によるものでした。


憑依霊の意志が先行してから、
僕の肉体が追従しているように感じられました。

 

「霊主肉従」とはこのような意味でないことは勿論ですが、

憑依霊のコントロールに肉体が追従するという意味ではまさに「憑依霊」が主体でした。


その時の僕の意識は身体の外に放り出されたような奇妙な感じで
自分の身体をコントロールしている主体が他人(憑依霊)であることが解りました。


憑依霊に対しては
「これは一体誰なのか?」と思いました。

そして何をしようとしているのか、が解りませんでした。

 

 

トイレのドアの前の床を手で掘ろうとする動きの
「脈絡のなさ」「意味不明さ」
に物質的な尺度では説明出来ない何かを感じました。

 

自分の手のはずなのに自分の意志とは別に
床をガリガリと指で引っかくように動き続けるのでした。

 

「これは霊現象だ。」

と直感的に思いました。

 

憑依霊の感情のあまりのリアリティは
まさに「生きている人間」そのものでした。

 

憑依霊の悲しみの感情はそのまま僕の感じ方でもありますが、
僕自身の「意識」とその感情にはどこかにズレがあり
「意識」まで憑依霊と同じではなかったように思います。

 

その時起こっている現象をどこかで冷静に観察している「意識」があり、
その「意識」で記憶していることを今こうして表現している感じです。

 

時間にして5~10分ほどトイレの前の床でガリガリやっていたと思います。

異変に気付いた姉が側に来て
何やら騒いでいたように思います。

 

僕は自分の今(その時)の醜く取り乱している姿を
姉が勝手にビデオカメラで撮っているように思い込みました。

 

そして怒りで周りを威嚇してやろうというような
こちらにかまうな!」という怒りの感情と

「ザマをみろ!」というような嘲笑の感情に
囚われました。

 

何故笑っているのかがよく解りませんが
本当に「可笑しい」感情が伴った笑いです。

 

可笑しくて可笑しくてたまらないというように
腹の底から爆笑するのでした。

 

そうかと思うと次の瞬間には泣いたり
怒ったりで、泣いて怒って笑うというパターンを繰り返しました。

 

外部から見ると精神に異常をきたしているように見えたと思います。
しかし霊的には複数の憑依霊が入れ替わり立ち替わりを繰り返していたのかも知れません。

 

憑依霊は複数いたのかも知れませんが、メインの憑依霊(悲しみの感情の持ち主)は女性のように思われました。

 

僕の仕草や反応は「女性的」なものになっていました。

 

姉と母はその時の僕の状態を急性アルコール中毒でそうなったと
思ったようです。

酔いをさますために大量に水を飲みました。

 

水を飲んでいる最中も、泣いて怒って笑う、を繰り返していました。

そのうち僕の急変を聞きつけて父が帰ってきてくれました。

 

そして僕の手を握り背中をさすってくれました。

 

母や姉が介抱してくれたときは、むしろ反発し拒絶するような態度をとっていた僕(憑依霊)でしたが、父が来てくれた時は反応が違いました。

 

父のことを自分の「夫」がきてくれたかのように感覚していたように思います。
父の手を強く握り「助けて」と言わんばかりにすがろうとするのでした。

 

父は僕の名前を呼びながらずっと背中をさすってくれました。

 

そうしているうちに僕は癒されたような気持ちになりました。
おそらくそれと同時に憑依霊も癒されたのだろうと思います。

 

それまで感じていた胸の苦しみが

スーっとましになったような気がします。

 

その後の僕の状態は酔いが醒めていくにつれ
落ち着いていきました。

 

時間とともに感情が高ぶって取り乱すような
憑依状態は消えていきました。

 

今から考えると、この時に父が僕の背中をさすってくれたことは

ある種のスピリチュアルヒーリング的な要素のあるものになっていたのではないかと思います。

 

父が子を思う「愛」を通路として何らかの霊的エネルギーが
僕(と憑依霊)に流入して魂が癒されたのではないか…。
と思っています。

 

(憑依について4に続きます。)

 

憑依について2

その頃の僕は挫折を経験して精神的に
落ち込んでいた時期でした。

 

定職にもつかず、実家でブラブラしながら悶々とした日々をすごしていました。


「解らない」ことから来る苦しみや
悲しみや怒り、そして何かを嘲笑して攻撃する
ような妄想が止まらないような状態でした。

 

妄想のしすぎで頭がパンパンになっていました。


一つの出来事にたくさんの解釈が入り交じって
感覚され、その出来事が何を意味するのかを考えては
また頭がパンパンになってどんどん訳が解らなくなるという
ような状態になることもありました。

 

例えば誰かが
「今日はいい天気ですね。」
と言ったとすると、こちらは
「アベコベの意味で解釈するのが正しい意味なんだ。」
と思うわけです。

 

つまり「今日はいい天気ですね。」の意味は
「いい天気→悪い天気」で
「今日は悪い天気ですね」が正しい意味なんだ。と思ったりして
言葉の裏にこちらに伝えたい暗号が隠されているのだ…。
と思ってその意味を探ろうとしていました。

 

今から考えると身近な出来事に暗号的な意味が隠されている、という感覚は背後霊からの霊的アプローチを何となく感じ取ってそうなったようにも思います。

 

しかし当時の僕は暗号的な意味を読みとろうとして複雑に考えて
結局訳が解らなくなり頭を抱えて悶絶するということもありました。

 

また今から考えると複数の憑依霊と同調一体化していた要素もあるのだろうと思います。

 

おそらくその中にはイタズラ霊もいて、
イタズラ霊の「おちょくり」のいいオモチャにされていた
ところもあるようにも思います。

 

その頃の僕は、時々「ウヒャヒャヒャヒャ」と何かを嘲笑することがありましたが、イタズラ霊がイタズラの成功に喜んでいた気分と同じ気分にこちらもなる、ということもあったように思います。

 イタズラ霊にとって僕はオモチャであると同時にイタズラ霊自身でもあったわけです。

 

憑依霊の感じている気分とこちらの感じている気分は
同じ気分になることがあって、両者は同じ気分を共有するところが
あるように思います。

 


突然笑うこともあれば、ものすごく胸が苦しくなることもありました。

「この世にこんな苦しみがあるのか」と思うほどの胸の苦しみです。

 

とにかく胸が苦しいのです。

 

肉体の胸が痛んでいるというより
何か解らないけど胸の奥にある何かが
凄まじい力で締め付けられるように苦しいのです。

 

その時の気分は巨大な暗黒の中で悶え苦しむような最悪の気分です。

 

床に這いつくばって、文字通り「のたうち回って悶え苦しむ」こともありました。

そのうち苦しみがやってくる時の対処法もあることに気付きました。

 

苦しみのあまり「のたうち回る」と余計に苦しくなるのです。

 

こういう場合は徒に抵抗せず、貝のように身を潜め、じっと苦しみが通りすぎるのを待つとよいと気付きました。

こうすることで苦しみは拡散することなく最小限で止めることが出来るように思います。

 

また大きな恐怖心でブルブル震えることもありました。

何か解らないけど「とにかく怖い」のです。

 

怖くて怖くてたまらず、何とかしなければと焦るのですが
何もする事が出来ず、自分のこれまでの人生を後悔しては「独り言」を言うのでした。

 

妄想が止まらないのと同時に「独り言」も止まらない状態でした。

 

一日中ぶっ通しで独り言を言い続けているような状態で
喉がガラガラになるまで独り言を言ってはクタクタになるのでした。


こんな日常を送っている時に、ついに憑依霊が出てくる(霊の存在を実感する)事件が起こったのでした。

 

(憑依について3に続きます)

憑依について1

僕が霊的な事に関心を持つきっかけとなったことについて語りたいと思います。


今から10年前になります。

 

僕の人生でもっともインパクトの大きかった
霊的な出来事を経験しました。

 

それは憑依という霊現象です。
憑依は自分の霊魂と地縛霊が一体化する現象です。

 

その当時の僕は霊的なことについては
むしろ否定的な思いを持っていました。

 

霊的なことは少なくとも

「自分には関係がないだろう」

と思っていました。

 

一般的によくあるタイプだったように思います。

 

しかし憑依を実際に経験し、霊現象というのは
本当にあるんだとその時初めて確信しました。

 

「これは幻覚とか錯覚ではない」と。
「霊というのはあるんだ」と。

その時初めて納得しました。

 

人間というのは実際に経験して初めて
確信し納得出来るのだと思います。

 


憑依によって現象が現れるパターンは色々あると思いますが
一番印象に残っているのは、
憑依霊が僕の身体をコントロールして
自分ではない他人(憑依霊)が
僕の身体を動かした時です。

 


その奇妙な感覚は
奇妙な奇妙な不思議な感覚です。

 

何とも言えない不思議な不思議な
何とも言えないぬるぬるとした感覚…。。。

 

のように感じたことを覚えています。

 


動いている肉体は自分の肉体ですが
その肉体を動かしている主体が
自分ではなく他人(憑依霊)だったのです。

 


僕は自分の肉体から外に放り出されたような感じで、
その身体をコントロールしているのが
他人(憑依霊)であることが解りました。

 

 

自分の肉体という着ぐるみの中に
入っているのが自分ではなく
他人だった、みたいな感覚です。

 

下半身には力は入っていなくて
憑依が強まった時に崩れ落ちるように
その場にしゃがみこみました。

 

そして匍匐前進するように手が動き出したのです。
何かを掘ろうとしているような動きで、
指を立てて床をかきむしるのでした。

 

その時の気分はただ「悲しみ」と「怒り」の感情だけの存在で、
凄まじい感情でした。
悲しみのために涙が止めどなく溢れました。

 

 

感情、感情、感情。

天地を貫くようなものすごい感情だけの存在です。

 その憑依霊は女性である、ということが直感的に解かりました。

 

僕がおかしいと思ったのは
悲しみや怒りには必ずその理由があるはずですが
その時はその理由が解らなかったのです。

 

もしかしたら憑依霊すらその理由を忘れてしまっている
のかも知れない。。。と今では思っています。

 

「悲しみ」と「怒り」に自分で自分を苦しめている

ような状態だったのかも知れません。

 

この時初めて自分の身に起こっていることが
霊現象であることが解りました。

 

この時初めて自分を悩ましていた心の苦しみ、
精神的に不安定になって妄想からくる苦しみ、
「解らない」ことから来る苦しみの原因が

 

「霊」的な要因によるものだったのだ

と直感的に解りました。

 

その時まで解らなかったのです。
「解らない」ことから来る苦しみの原因が。


話が前後しますが、僕が憑依霊に
身体をのっとられる事件が起こるまで
約一年半ほど精神的に落ち込み
気分が不安定な鬱状態
続いていました。

 

統合失調症の一歩手前のような状態だっと思います。

 

「解らない」ことから来る苦しみと言いますと。

 

自分の身の回りで何かが存在していて
何かシナリオのような計画書があり
何かがシナリオ通りに演出し、こっそりと僕を監視して
何かをしようとしている。という感覚に苦しんでいました。

 

その何かの存在を感じていましたが
それが気のせいなのか
それともその存在に何か意志があってのことなのか
何をしているのかが「解らない」のです。

 

妄想が果てしなくとまらない。。。ような状態です。

 

何か僕だけに秘密にしている
ドッキリカメラのようなことを
その存在がしている
のではないか?と。

 

「何かいるんやけど知らん?」

 

と人に聞いてみたりしました。

自分の周りの人間は
全てこのドッキリカメラの役者を演じている
グルなのだ。と思いこんだりしました。

 

外部から見るとかなり言動がおかしくなっている
状態だったと思います。

(憑依について2に続きます)

霊的な感謝を考える

一人はみんなのために
みんなは一人のために。
という言葉があります。

 

どんな小さな歯車でも
それが噛み合って「仕事」を
することにより
全体が成り立つわけで、

小さな歯車は全体にとって
なくてはならないものです。


人間の一人一人は小さな歯車かもしれませんが
人類全体・霊的同胞全体の目から見ると

決して欠かすことの出来ない重要な
歯車なのだと思います。

 


その歯車はもちろん大霊によって
創造された歯車です。


人間の一人が霊的成長することは
その人自身にとっての霊的価値があるのみならず
広く人類全体・霊的同胞全体の霊的成長に
寄与することと思います。

 

 

その人が成し遂げた霊的成長は
大海に落ちた一滴の水滴のように
人類全体の霊的成長という大海の
水の量をその分だけ
大きく豊かにすることに
貢献しているのだと思います。

 


大海に対して一滴の水は
わずかかも知れませんが
その一滴の価値はとても大きい。

わずかな一滴の中に大霊が嘉納される
霊的な価値があるように思います。

 

大霊は空転する歯車を創らない。

といいますか。。。



大きな視点に立てば(本人に自覚がなくても)全ての人が少しずつ

確実に霊的成長の道を歩んでいます。

 


一人の霊的成長は
全体の霊的成長に貢献している
と思います。

 


小さな一つの歯車がたくさん集まって
みんなで仕事をすることにより
霊的同胞の全体である
巨大な一大連動装置を動かしていく。。。。

 


スピリチュアリズムでは
物的視野ではなく霊的視野で
もの事を見ることが求められます。

 

さらに言うならば霊的視野にも
ざっくり分けると二通りあって、

狭い範囲の個別的な霊的視野と
より広い範囲の全体的な霊的視野があるように
思います。

 

カルマや様々な個別の霊的背景からの
視点が個別的な霊的視野とすると


大霊の望まれた理想の世界
その霊的に成熟完成された広大な視点を
全体的な霊的視野と呼んでいいと思います。


個別的な(狭い範囲の)霊的視野と
全体的な(より広い範囲の)霊的視野の
関係は地球の自転と公転の関係のように
無限に奥行きのある関係のように思います。


より広い全体的な霊的視野に立つと
人間一人一人の存在は
人類みんなの霊的成長の為に
わずかとは言え確実に
それぞれ寄与・貢献を
しているわけですから、

この立場に立てば自然と人間一人一人の存在に対して

「ありがとうございます」
「ありがとうございます」

と感謝の念が沸き上がってくると思います。


それは物的視野に立った
「ありがとう」というよりも
霊的視野に立った
「ありがとう」です。


例えば街ですれ違う一人一人の人々に
心の中で感謝する「感謝の行」を
するときは、こんな視点で感謝すると
霊的にもすごくいい感謝になると思います。

 

感謝一日百万回

昔の餃子の王将のCMで

「餃子一日百万個 食は万里を超える」

というのがありました。

結構古いCMです。

 

このCMを見ていた頃の僕は子供心に

 

「餃子で万里の長城を作ろうとしてんのかな?」

 

みたいなイメージで見ていました。

 

「ようさん餃子いるやろうなあ」

みたいな感じで。

 

まあ、それはどうでもいいんですけども。。。

 

あのCMを彷彿とさせる

 

「感謝一日百万回」

 

でございます。

 

実はこのワンフレーズ、

とある神社を参拝してお祈りしていた時に

何となく感じたインスピレーションなんです。

 

 

心の中にポトリと落とされたような意味内容で

 

「感謝一日百万回」

 

と。

 

 

「感謝一日百万回???」

何をいうとんねん。という感じですが

 

 

 

これは僕がいつかやってみたいと思っていた

一日中ぶっ通しで笑顔笑顔であり続けるという修行

「ニコニコ行」

における修行の姿勢を表現したものに相応しいフレーズだなあ

と思いました。

 

 

ニコニコすることは霊的にすごくいいことと思います。

 

「ありがとお。ありがとお。」

 

と大霊に感謝しながらウキウキした気持ちで

ニコニコするとさらにいいと思います。

 

感謝する対象はなんでもいいわけです。

花でも小鳥でも虫でも人でも物でも

全てが大霊につながっていますから。

 

 

ニコニコすればするほど

感謝すればするほど

大霊と共にいられるわけです。

 

「万歳!万歳!大霊だ!

たまにはそんな祭があってもええやないか!」と。

 

ひとりでお祭をやっているようなテンションなわけです。

 

 

僕が大好きなフレーズ、

「我らは神のために生き、神に向かって生きていく。

神の意思を知り、それを実践しようとする。」byインペレーター

 

ニコニコすることがその「実践」にあたるわけです。

感謝感謝で連続感謝することがその「実践」にあたると思うわけです。

正しいのかどうかは解かりませんが

とにかく簡単に出来る「実践」だと思います。

 

 

でも実際に「感謝一日百万回」しようと思えば

計算してみると無理っぽいんですけども。。。

 

 

一日24時間は秒になおすと8万6千400秒ですから

1秒につき約12回感謝しないと100万回にはおいつかんわけです。

 

 

1秒間に12回感謝している状態というのは

どういう状態なのかな??

と思いますけども。。。

 ものすごいバイブレーションですわな。

ブブブブブブ。みたいな。

 

 

昔、ファミコンの達人で高橋名人という人が

一秒間にボタンを12連打したという伝説を聞いたことがありますけども。。

 

 

どないやねんそれ。という感じでございます。

 

 

ともかく

それくらいの勢いで、

それくらいの気持ちのあり方で、

感謝をたくさんすると

「いい修行」になるのは間違いないと思います。

 

 

この「ニコニコ行」は

普段の生活の中でやっていきながら

ニコニコする時間をなるべくのばしていき

気がつけば一日中ずっと絶え間なくニコニコしてたなあ。。

となって完成するのが理想的だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

用語の問題 霊とか生前とか

「用語の問題は我々にとってはどうでもよろしい。人間どうしで通じ合えるような用語をこしらえることです。地上の論争の大半は、五感に反応しないものに関して地上の言語が不完全であるために、用語について共通の同意が欠けていることから生じています」霊の書p35(スピリチュアリズム普及会)

ーーー

霊的なことを表現するときに、その言葉をどうイメージして使っているか

という問題があると思います。

 

 

例えば「霊」という言葉も

何となく抱くイメージが人それぞれバラバラだと思います。

 

霊的なことに関心のない大半の地上人は

「霊=幽霊」的な怪談話のイメージを持っていて

 

「霊は怖い」とか「霊なんていない」とか

「霊=低級霊」のイメージで捉えているように感じます。

 

「霊」は「霊」でも高級霊と低級霊では雲泥の差があります。

 

スピリチュアリズムでは我々地上人自身も「霊」だし

守護霊・背後霊・指導霊も「霊」だし、天使や妖精、自然霊も「霊」だし

神社やお寺にまつられている神様仏様も「霊」だし

創造主(大霊)はもちろんのこと「霊」になると思います。

 

しかし一般的には

「霊=高級霊」のイメージはないように思います。

 

 

 

もちろん霊には高級霊も低級霊もありますが、

一番大事な高級霊のイメージが抜け落ちて

どうでもいいような低級霊のことばかりに

スポットをあてるようにイメージするのは良くないと思います。

 

 

大半の人がそうであるように

「霊=低級霊」のイメージでとらえる先入観があると

霊的なことを忌避してしまったり

歪んだオカルト信仰に陥ってしまう傾向があるように思います。

 

 

また日常使っている言葉で元々は仏教用語であるものが多々あります。

 

例えば「生前」という表現は面白いと思います。

 

亡くなった故人がまだ生きていた時代のことを

「生前」と言うわけですが、死ぬ前のことを「生まれる前」と表現するのは

奇妙な感じもします。

 

仏教では「死んで地上を去り極楽浄土に生まれる」とするので

「極楽浄土に生まれる前」、ということで「生前」と言うようです。

 

霊界のことを「極楽浄土」と表現するかどうかは別にして 

この言葉の面白いところは視点が霊界にあるところです。

 

霊界目線で地上時代のことを振り返って見て

霊界に生まれる前のことを「生前」とするわけです。

 

つまり霊界での「生」がメインで

地上の物質界での「生」はサブとする

スピリチュアリズムの観点が「生前」という言葉の

裏にあるように思います。

 

これは霊的真理です。

視点が霊界にある言葉は珍しいと思います。

 

僕はお寺との縁があって

つい 仏教の肩をもちがちなんですが、

これからの仏教のあり方を考えますと

 

言葉の意味は時代によって変わっていくように

仏教の言葉や考え方もスピリチュアリズム的に解釈しなおす

という作業が必要なのではないか。。。

と思っています。

 

 

 

 

花の恩返しから学んだこと

職場のあるダムの管理所から300mほど離れたところに

ぽつんと小さな庭があるんですが。

先日、草刈りをしたんです。

 

そこの草が膝下くらいの高さまで伸びてきていたので

「そろそろ草刈りせなあかんなあ。」と

思いながら見ていたんです。

 

電動芝刈りバリカンという道具で
草刈りしていたんですが。

草刈りの途中で雑草の中に白と黄色のマーガレットのような
野草の花があることに気がついたんです。

 

中央が黄色で白の花びらの花が
5~6本かたまって咲いています。

 

雑草とはいえ花のある草を刈るのは少し気が引けます。

 

かといって刈らないというわけにもいかず
普通は雑草に花があってもそのままバーッと
刈ってしまいます。

 

しかしその時は、雑草の中のマーガレットの様な花をつけた草を
何となくそのまま刈るのは忍びなかったので

 

「ようし!まかせとけ!」
と思いましてですね。

 

そこだけ5~6本の草を刈らずに
そのままにしておいたんです。

 

 

白と黄色のコントラストが綺麗やなあ。と思いながら

 

「かわいいなあ。綺麗やなあ。大霊や。大霊や。」
とニコニコ返しで花に愛を送りまして。


草刈りが終わってから見ると、
刈り残した花のところだけが
ポツンと愛らしく残っていて

 

「ええこっちゃ。ええこっちゃ。なかなか感心なこっちゃ。」
と自分で自分を誉めてですね。

 

なんとなく霊的にすごくいいことをしたような
気になりまして。

ルリリリランランルリリララ♪
だったんです。

 

その次の日のことです。
職場に出勤したら受付のカウンターの
ところにですね。

 

なんと。

 

昨日刈り残したあのマーガレットのような
黄色と白の花と全く同じ野草の花がグラスに5~6本入れて
飾られていたんです。

 

「なんと。」

と思いまして。
すごく愛らしく感じられました。

 

昨日、刈り残して愛を送ったことの
お礼を言いにきたのかな。と思いましてですね。
もう嬉しさがこみ上げてきました。

 

ピンと霊的存在の関与を直観しました。

 

「誰がこの花を生けたのかな?」と
思っていたら、職場では一番えらいさんになる
所長が生けたとのことでした。

 

「へーえ。」と思いましてですね。

 

僕はその時、昨日刈り残した花を所長が見つけて
摘んできたのかなと思いましたが、

昨日の草刈りの現場に行ってみると
刈り残した花はそのまま残っていました。

 

 

つまり所長はどこか違う場所からあの花を摘んで
グラスに入れ受付に飾ったようです。

 

 

所長が何を思ってあの花を活けようとしたのかは解かりませんが

所長の思考をコントロールして
あの花の生えている別のところへ向かわせ
摘んで飾ろうと思わせた霊的存在の関与がないと
このような偶然はないだろうと思います。

 

霊界が動いたら
「動きましたで。」
みたいな感じで霊界が動いた「跡」が
偶然という隠れ蓑に隠れながら

さりげなく自己主張しつつ残されるものです。

 

シルバーバーチ
「偶然といったものはありません」
と言っていますが、霊的世界がその存在(霊的法則)を
表現しようとしたのかも知れません。

 


僕が花を刈り残そうと思ったことも
ほんの少し霊的に良いことだったのだと思いますが

 

所長がやさしい心で野草の花を受付に飾ろうとしたことも
霊的に良いことなのだと思います。


そして受付に飾られた摘まれた花も
刈り残された花(同胞)のお礼をするために
自分を犠牲にしてやってきてくれて
これが一番霊的にすごいことだと思いました。

 

この摘まれた花がある意味ものすごく崇高な
自己犠牲と愛の理想の姿を教えてくれて
いるのかも知れない。。。と思いまして。

 

「霊的に良いこと=霊的成長」
と捉えてもいいと思います。

 

ほんの少しの霊的成長が霊的好循環を生み
全ての存在にリンクして
霊的にも良い影響を生み出して
いくのだなあと思いました。

 

神の摂理・霊的法則を学ぶ上で
まさに自然は生きた教材なんだと
思いました。


飾られた花にはいつも以上に
ニコニコ返しをしてお礼の愛を
送っておきました。

 

「花さん、ありがとう。」

ニコニコニコ♪
パワワワワァァァ。

 

滝から学んだこと

滝に行ってきました。

 

ちりりんさんに滝師匠なんて
大きな名前をつけられてですね。

 

もう、滝に行かざるを得ない感じですわな。

 

僕なんて、とても師匠なんて言われる程の
修行はしていないです。

でも愛情を持ってそのように言われるのは
とても嬉しいです。

 

その日は

「さあ今日は滝師匠の出番やでえ。」と
思いましてですね。

 

「さあ。滝師匠が参上させてもらいまっせえ。」と
思わさせてもらいまして。

 

「ぽん氏、滝に行かざるを得なくなるの巻き」
みたいな感じでございます。


朝は4時半に起きてですね。
早朝の山の中へ入って行くわけなんですが。

 

今の季節はもう5時半頃はかなり明るいですね。

 

冬の5時半は真っ暗ですけども。

 

まだ暗い山に入っていくと
「川明かり」と言いまして
川のところだけが真っ暗でもほのかに明るいのが解ります。

 

川の水というのは
うっすらと光っているんです。

 

水というのは発光しているんですね。

 

僕はこの「川明かり」が好きで
2年程前に熱心に修行していた時は
川明かりのほのかな光に
勇気づけられたものです。

 

滝の水はまだ冷たいとはいうものの
冬に比べると、かなりましになってきました。

 

滝に入る時は神にお祈りをして
気合いを入れます。

 

「神よ。大霊よ。
神のお手伝いをするためにはどうあるべきか
どうかよろしくお教え下さい。」
と祈りましてですね。

 

守護霊にも
「よろしく学ばせてください。たのんます。」
と念じまして入っていきます。

 

滝に入ると身体が滝に馴染んできて
瞑想が深まってくるまで
不動明王真言マントラ)を唱え続けます。

 

「なあまくさあまんだあ…」
言いながらですね。

 

真言は特に必要ないと思いますが
滝に入ってすぐの時など
気合いを入れた状態から瞑想状態へ
移行するまでの間は
マントラ瞑想みたいな感じで
唱えるようにしています。

 

滝の中での身体が馴染み
真言を唱えるのが不要になれば

「ととととと…」

という身体に当たる水の音に
集中しながら瞑想を深めていきます。

 

今回は30分くらい打たれてきました。

 

滝から出ると
最後の締めに川の水で水垢離を
行いまして、その後
顔と頭を洗います。

 

もう濡れネズミみたいに
なりましてですね。

 

身体が芯から冷えて
ボロ雑巾状態です。


それから着替えて
あたたかい服に身を包まれますと
Tシャツ一枚、靴下一枚が
「ありがたいなあ」と
実感出来ます。


普段生活しているとTシャツや靴下に
感謝することはないと思いますが

「行」をすると骨身に沁みて
そのありがたみが実感できると思います。

 

「ああ。なんと靴下一枚のありがたいことよ。
神様ありがとうございます。」

みたいな感じです。

 

そんなとき
「ああ。やっぱり「行」をやって良かったなあ。
今日はいい「行」が出来た。」
と思えるんです。

 

正直、「行」に来る前の日は
ちょっと怖いんですけども、
終わればいつも
「ああ。やってよかった…」と思います。

 

このあたりも修行の魅力だと思います。

 

そして。
何となくですが。。。

 

滝から出て冷えた身体を温めながら
体力を回復させつつある時に、
じわじわと解凍されるように
霊的な存在から頂いたと思われる「意味内容(インスピレーション)」が
現れてくるように感じましてですね。

 

それが前回の記事のタイトルになった

「神が縛ったものは神がほどく」

というワンフレーズです。

 

ここから色々と考えてみて
前回の記事になりました。

 

 「神が縛ったものは神がほどく」

 

もう少し考えを進めますと
神の手伝いをして「縛る仕事」をする者もあれば
神の手伝いをして「ほどく仕事」をする者もある。

 

神の目から見ると両方が必要ですし、

両方が神の使者なんだろうと思います。

 

そして
「ほどく仕事」をする者がスピリチュアリストに
なるのかも知れません。


なんとなく霊的な存在から

「ほどいてやれ」

と言われたような気がしましてですね。

「こら、がんばらなあかんな」と。


スピリチュアリストとして
そういう仕事が出来るように
日常の修行を努力していきたいと
思いました。